第242話

 まずい――そう思ったときには、お兄さんは大股に近づいて、綾人の腕を掴んでいた。

 

「痛ッ!?」

「……ほとほと呆れたよ。お前は、ちょっと目を離せば、男と逢引きか?」

 

 苦痛の声を上げる綾人に、お兄さんは冷たい言葉を投げつける。綾人は、目を丸くし……それから、反論する。

 

「何を言ってんだよ、オレは何もしてねぇ!」

「はっ。このアルファと抱き合っておいて、よく言う。お前にとっちゃ大したことはないのか?」

「な……!?」

 

 綾人の顔が、怒りで紅潮する。

 

 ――だめ! またケンカしちゃう!

 

 ぼくは、慌てて二人に駆け寄った。

 

「お兄さん、待ってください!」

「……成己さんか」

 

 お兄さんは綾人の手首を掴んだまま、振り返った。――黒い炎みたいに、怒りに燃える目に見据えられ、膝が震えてしまう。それでも、きちんと弁明しなくちゃいけない。

 ぼくが、綾人を守るって決めたんだから!

 

「お兄さん、違います! 椹木さんは、宏章さんを訪ねていらっしゃったんです。さっきのも事故で、お兄さんがご心配されることは、なにも――」

「宏章はどこだ?」

 

 お兄さんは、ぼくを遮って宏ちゃんを呼んだ。

 宏ちゃんの姿を見る前から、殴りかかっているような声。

 

「宏章さんは、お仕事で出ていらっしゃいます」

 

 狼狽えて答えると、鼻で笑われてしまう。

 

「話にならない。あいつが「ちゃんと監督する」と言うから、綾人を任せたのに。その結果が、不用心に他のアルファを家に引き込むという事なのか? やっぱり、あいつは信用ならん」

 

 ぼくは、さっと血の気が引いた。

 宏ちゃんが、ぼくの手落ちのせいで責められている。綾人のためにあれだけ心を砕いてくれたのに、ぼくが台無しにしてしまうんや。焦燥に衝き動かされ――深く、頭を下げた。

 

「申し訳ありません! 宏章さんは、悪くないんです。ぼくが、言いつけを守らなかったんです。ご心配をおかけして、申し訳ありません。でも……」

 

 誓って、やましいことはない。

 ……そう訴えようとしたけれど、強い怒りの眼差しを浴びせられ、二の句が継げなくなる。

 

「成己さん。勿論、あなたにもがっかりした。もう少しちゃんとした人かと思ってたよ」

「申し訳ありません……」

 

 失望に満ちた声音に、唇を噛み締める。

 でも、お詫びのしようもない失態やった。巻き込んでしまった椹木さんにも申し訳ないやらで、泣きたい気持ちになる。

 すると――綾人が、声を上げる。

 

「違うだろ! 成己は何も悪くない。オレが勝手に、椹木先生を家に入れたんじゃん!」

「綾人……?!」

 

 ぎょっとして振り返ると、綾人は眉を寄せて、お兄さんを睨み上げている。

 

「……なんだと?」

「大体、朝匡は勝手なんだよ! 成己も宏章さんもなぁ、いきなり訪ねてきたオレにずっと良くしてくれてたんだ。椹木先生だって、宏章さんを訪ねてきただけなんだぞ……いちいち勘ぐって、失礼なことばっか言うなよ! このアンポンタン!」

「……ッ、綾人!」


 綾人の言葉に、お兄さんは気色ばんだ。


「いっ……! 離せ!!」


 腕を握る手に力を込められたのか、綾人が顔を顰めた。けれど、お兄さんは綾人の手を引いて、猛然と歩き出した。


「朝匡!」

「とにかく帰るぞ。話は後で聞いてやる」

「お兄さん、待ってくださいっ」


 このままじゃいけない――そう思って、追いすがろうとしたぼくの前に、さっと影が差す。


「待って下さい」


 静止の声を上げたのは、椹木さんやった。お兄さんの肩を掴んでいる。


「何です? 離してもらえませんか」

「野江さん、どうか冷静に。乱暴な真似はいけません」


 成り行きを見守るように、ずっと黙っていた彼は、静かな調子で諌める。

 お兄さんは、片眉を跳ね上げた。


「ほう――人のオメガに近づいておいて、自分は行儀の良いふりですか。大したものですね、椹木さん」

「お腹立ちはごもっともです。すべて、迂闊な真似をした私に責任があります。ですが、お二人は人として、親切に振る舞われただけ……どうか怒りの矛先は、私にだけお向け下さい」


 誠実な声で言うと、椹木さんは頭を下げた。彼の体から溢れる白檀の香りが、あたりに満ちる。


――あ……すこし、息がしやすく……?


 フェロモンに圧迫されていた喉が軽くなり、目を瞬く。

 椹木さんは、言葉を続けた。


「ご自身のオメガを……綾人さんを、信じてあげてください。――オメガである前に、あなたと対等のパートナーなのですから」

「椹木先生……」


 凛とした言葉に、綾人が涙ぐんでいる。

 ずっと不安やった気持ちが緩んだような、そんな顔やった。

 肩を抱いてあげたくて、傍に行こうとする。そのとき――お兄さんが乾いた笑い声を上げた。


「……部外者が、言わせておけば。番である俺を差し置いて……人のオメガの世話を焼くなぞ、礼儀知らずにも程がある」


 お兄さんの目が、真っ黒に燃えている。危険信号を読み取って、ぼくはサッと青褪めた。


「差し出た真似をいたしました。しかし……」

「黙れ! あんたにこいつの何がわかる!」


 お兄さんは激昂し、拳を振り上げる。


――だめ!


 椹木さんを殴るつもりやと気づいて、ぼくは咄嗟にふたりの間に飛び出していく。


「――成己!!」


 綾人の悲痛な叫び声が、聞こえた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る