第236話【SIDE:陽平母】

 椹木邸を出るころには、精も根も尽き果てていた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 体を引きずるように、門までの道を歩く。

 もう、使用人も誰も追ってはこなかったから、どれだけ遅くとも構わない。門の側に止めていた車に乗り込んで、心配そうな運転手に帰るよう告げる。

 

 ――ああ、疲れた……

 

 体もだけれど、心がクタクタだった。

 シートにぐったりと身を投げ出し、両手で目を覆う。 

 

「奥様……大丈夫ですか?」

「……ええ。放っておいて……」

 

 絞り出すように返事をし、体を丸める。目を閉じると、昔のことが脳裏を過った。 

 

 ――『陽平ママ!』

 

 幼い晶ちゃんの、純粋な笑顔。いつから……あんなに変わってしまったの?

 私と、陽平ちゃんと――晶ちゃんと。何度も、一緒に遊んだ。ショッピングや、キャンプに行ったりもして……本当の家族になるんだって、信じて疑わなかったのに。

 

「……ううっ」

 

 鼻の奥が、ツンと痛む。泣きそうな顔は、醜いから誰にも見られたくない。ハンカチを探そうとバッグに手を突っ込んだとき、手にバイブレーションが伝わってくる。

 

「……?」

 

 着信を知らせるスマホを掴みだすと……発信者は、あの人だった。

 ドクン、と心臓が鼓動する。

 

 ――どうしよう?!

 

 結局、晶ちゃんはとんだアバズレで、うちになんか入れられはしない。陽平ちゃんは婚約破棄をして、パートナーもいない。

 私の独断で、とんだ事態を招いてしまっているのに。

 がたがたと、体が震える。

 

「…………はい」

 

 けれど――私は躊躇した挙句、受話器を上げた。

 出たくなかったけれど……あの人の電話を無視するなんて、私にはとてもできなかったんだもの。

 

『もしもし、弓依』

「あなた……どうしたの?」

 

 返事をしながら、優しい声に胸がきりきりと痛んだ。

 

『実はいま、空港にいるんだよ』

「えっ!」

 

 予定より早いじゃない!

 真っ白になる頭に、夫の照れたような声が聞こえてくる。

 

『予定がキャンセルになってね。ちょうど、フライトの空きがあったから、帰ってきてしまった』

「……あ」

『社に顔を出すが、夜には帰れると思う』

 

 優しい声に、死刑宣告をされた気になった。

 あんなに、帰りを楽しみにしていたのに。

 今は、どんな顔をして、この人を迎えればいいのかわからない。

 

 ――どうしたらいいの。婚約をぶち壊して、結納金を不意にした挙句……晶ちゃんに騙されてた。きっと、社交界の風聞も……最悪になるでしょう。

 

 あなたの名誉にまで、大きな傷をつけてしまったわ。

 ……いっそ、このままどこかへ消えてしまいたい。もう全部投げ出して、実家に戻ってしまえば、あなたに疎まれずに済むかしら。

 思いつめていると、ふと夫が声を低めた。 

 

『……何かあったのか?』

「えっ! な、何も無いわよ?」

 

 ギクリとして、慌てて返した。声が滲まない様に注意してたはずなのに、どうして。

 

『いや。何だか元気がない気がしてね』

「……!」

 

 心配そうなあの人に、涙が溢れる。ぼろぼろと、塩辛い雫があとからあとから。

 

「ううっ……」

『どうした!? 泣いてるのか?』

 

 大慌ての声が、電話の向こうから聞こえる。あんまり優しくて、泣きながら笑ってしまう。

 普段、本当に鈍いくせに、どうして気づいてしまうのかしら。

 私は、観念した。

 

「あなた……あのね」

『うん。どうした?』

 

 とても優しい声に、うっとりと目を閉じる。……二度と聞けなくなったとしても、私は受け止めないといけないのね。

 すう、と息を吸い込んで、口を開く。

 

「ごめんなさい。私ね、とんでもないことをしてしまったの――」

 

 


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