第235話【SIDE:陽平母】

『……』

 

 静まりかえったリビングに、ガサゴソと何かを掻き回す音が響いた。

 それから、何かが弾む音。――音が割れるのも気にせず、親指で音量のタブを押し上げていく。

 

「……?」

 

 椹木と雌猫が、不思議そうに顔を見合わせる。私が何をしたいのか、解らなかったらしい。

 鈍いわね、と失笑が漏れる。

 

「城山さん、一体……?」

 

 椹木が、眉を寄せて問うたときだった。

 

『……ぁっ』

 

 艶めいた声が、響く。

 

「!」

 

 椹木と雌猫が、目を見開いた。私は唇をしならせて、音量をついに最大にする。

 すると、

 

『……陽平……』

 

 ボイスレコーダーから、媚びた甘い声が飛び出す。それから、荒い息遣いに生々しい水音。

 何をバラされているのか……やっと感づいたらしい雌猫が「あっ」と叫んだ。

 けど、もう遅い。


『ああ……!』


 リビングに、淫らな大声が響く。

 

「……!」

 

 椹木は、サアッと青褪めた。

 男に媚びる、オメガの鳴き声……それが、誰のものであるか、悟ったらしい。銅像みたくフリーズして、ボイスレコーダーを凝視している。

 

「嘘、ママ……なんで……!」

 

 雌猫は、フリーズ男の腕の中でぶるぶると頭を振る。やめて、と仕切りに呟いている。

 やめるわけないでしょ、バカね。私は鼻で笑い、ボイスレコーダーを高く掲げた。

 

『……お前の指、気持ちいい……』

『……痛くねえの?』

『いいから、もっと………』

『……こう?』

『そう、もっとして……!』

 

 ほら、音声のあなたはヒートアップしてく。私の息子に甘える声、聞こえるでしょう?

 

「やめッ……!?」

 

 雌猫は真っ赤になって、フリーズ男の腕から逃れようと、藻掻いた。――次の展開がわかっているのね。けれど、呆然としてる椹木の石のような腕から脱け出せず、泡を食っている。

 

「ママ! ママ、止めてよ!」

「静かにしなさい。椹木さん、よく聴きなさい! これが無理矢理される、オメガの声かしらぁ?!」

「わーっ!」

 

 雌猫はジタバタ暴れて、泣き叫ぶ。でも、高性能レコーダーは、恥を大音量で放出した。

 

『ねえ、欲しい……陽平』

『晶……!』

『あ……ああああ……っ!』

 

「――やめろぉぉ!」

 

 一際淫らな叫びが上がった瞬間、雌猫は金切声を上げた。

 

「うああー!」

 

 木偶と化した椹木を突き飛ばし、飛びかかってくる。

 狙いは、レコーダーね。

 

「甘く見るんじゃないわよ!」

 

 そう来るくらい、私は読めてるの。

 ひらり、とすんでで身をかわし、ソファに飛び乗った。バネを利用し跳躍すると、ソファの背もたれを飛び越えた。

 

「ああっ!」

「あははは! 捕まるわけないでしょ!」

 

 噛みつきそうな顔で、こちらに方向転換する雌猫をあざ笑う。ひらりひらりとスカートを翻し、家具の間をすり抜けては、突進してくる雌猫の追撃をかわした。

 

『ああ、凄い……陽平』

『……良いのか?』

『あの人と、全然違う……!』

 

 その間も、レコーダーは痴態の限りを曝す。

 どれだけ被害者ぶっても、これじゃあ台無しだって言わんばかりに。

 雌猫は真っ赤になって、悲鳴を上げた。

 

「このっ、この……止めろよぉぉ!」

「ははははは! 嫌よ、このアバズレ! キャーキャー騒いで楽しそうじゃないの、椹木さんにもっと聞いてもらいましょうよ?!」

「うぁぁあ!」

 

 滅茶苦茶に腕を振り回し、飛びかかって来た。――頭に血の上った単純な動き。自分のあられもない声が響き続けるせいか、雌猫の動きは精彩を欠いてる。小柄な女性の私でも、簡単に躱せるほどね。

 ギリギリまで惹きつけて躱すと、雌猫は観葉植物に突っ込んだ。

 ドタン! 大きな音が立った。

 

「うぐっ!」

「……し、晶君……!」

 

 もんどりうった婚約者に、我に返った椹木が駆け寄った。抱き起して、必死な顔で私を振り返る。

 

「城山さん……申し訳ありませんでした。彼にかわって謝罪いたしますから、どうか、もう……!」

「はぁ~?」

 

 許しを乞われて、鼻白んでしまう。暴れたせいで、乱れた髪を耳に掛けると、こっちに近づいてくる足音が良く聞こえた。

 にいと唇をつり上げる。

 

「お言葉ですが、城山が受けた侮辱はこんなものじゃありませんわよ?」

 

 椹木が悲痛に顔を歪めたのと、ドアが開いたのは、同時だった。

 

「旦那様! さっきの物音、は……?」

 

 飛び込んできた使用人たちは、状況がつかめないのかポカンとしていた。

 スッ転んでいる女主人と、それを抱えたまま膝まづく主人。その前に、仁王立ちでボイスレコーダを掲げる私。そして――淫らな声。

 

『陽平、陽平……好きっ、大好き!』

『晶……!』

『ああぁ……!』

 

 彼らは、淫ら極まりない女主人の声に、呆然として顔を見合わせている。

 

「え……この声、晶様……?」

「これは、一体……?」

「うあああ、聞くなあぁ!」

 

 使用人達にまで恥をさらし、雌猫は悶え泣いた。

 

「やだやだやだ! 酷いよ、酷いよママ! 俺が何したんだよぉ……!」

 

 癇癪を起した子どものように、床の上でのたくっている。……あんまりみっともなくて、鳥肌が立ってしまいそうだわ。

 

「がふっ!」

 

 ふいに滅茶滅茶に振り回した足が、椹木の横面を蹴る。呻いた主人に、使用人が我に返った。

 

「――旦那様!」

「だ、大丈夫です……それより晶君を、静かな所で休ませてあげてください」 

 

 頬を抑えて、椹木が雌猫を連れて行くように、使用人に言う。

 

 ――甘い男ねえ。浮気者の婚約者を気遣うの?

 

 もっと責めて、殴るくらいしなさいよ。

 苛々していると、雌猫が叫んだ。

 

「……それっ、取り返して! それを止めさせて!」

 

 私に指を突きつけ、レコーダーを奪うよう使用人に命じる。

 狼狽えながらも忠実に私に向かってきた使用人たちを、私は一喝する。

 

「下がりなさい! 私は城山弓依よ。髪一筋でも触ったら、酷い目に遭わせてやるわよ」

 

 それから、身をひるがえし――部屋の外に飛び出した。

 

「うわあああ!」

「あははは!」

 

 雌猫の悲鳴が、背を追ってくる。

 縦横無尽に、廊下を走り回る。すれ違う使用人が、私に驚き――それから、淫らな大音声に目をむいていく。

 

『陽平、好きっ。お前だけだよっ……』

 

 黙れ、大嘘つき。

 大理石の床に反響する声に毒づく。

 

『今だけでいいから……好きって言って。成己くんよりも……!』

 

 あんた、成己さんよりも汚いわよ。

 

『ぜんぶ、お前のものにして……!』

 

 死ね!

 

「絶対に許さないからっっ!!!」

 

 追いすがってくる使用人をかわしながら、怨嗟の言葉を叫ぶ。

 全てが許せなかった。

 愛も、信頼も……思い出さえも裏切った、晶ちゃん。大切で、守ってあげたかった小さな王子様。

 

「やめろってば! やめろ……!」

 

 お前が、殺したのよ……このアバズレ! 

 どたばたと、階段を駆け上ってくる雌猫を、椹木や使用人が必死に引き留める。これ以上、城山と問題を起こすわけにいかないものね。

 

 ――オメガとして……恥をかき曝して、死んじまえ!

 

 私は、憎しみのままに椹木邸を走り回った。

 ボイスレコーダーに吹きこんだ痴態のすべてを曝すまで……

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