第229話【SIDE:陽平母】

「――来られない?」

 

 私は、電話口の相手に問い返した。晶ちゃんとの待ち合わせに向かう最中の、車の中でのこと。

 

『はい。晶君は、待ち合わせの場所に向かう途中で、体調を崩してしまって……申し訳ありませんが、本日は』

「わかりました。晶さんに、お大事にと伝えてくださいます?」

 

 温厚そうな口調を遮って、私は通話を切った。

 苛々と、髪を掻きむしる。

 

「もう! なんでこうなるの!」

 

 やっと、晶ちゃんが話し合いに前向きになってくれると、期待していたのに。

 今日こそは、椹木と別れるように説得して。「陽平と結婚する」って言葉を引き出そうと、入念に準備を重ねてきたのよ。私は、体に立てかけるように置いたバッグを、見下ろす。

 そう……晶ちゃんを救い出す、準備は万端なの。

 

――なのに、なんで来てくれないの! 晶ちゃんは、何を考えてるの。状況が解っていないの!?

 

 早くしないと、あの人が帰ってきちゃうのよ! 

 衝動的に、スマホを持った手を振り上げかけて――ぎりっと唇を噛み締める。 

 

「……っ」

 

 物に当たっても、何にもならないわ。それに……晶ちゃんだって、わざとじゃないんだから。体調が悪くなったんだから、仕方ないじゃない。

 そう自分に言い聞かせて、動揺を抑え込む。

 

「あの……奥様。どうなさいましたか」

「……何でもないわ。予定は無くなったの。でも、このまま帰るのはつまらないから、しばらく走らせて」

「かしこまりました」

 

 心配そうな運転手に指示を出し、シートに体を預ける。

 車窓に映る、自分の姿を見てため息が出た。せっかくセットした髪が、かきむしったせいでぐちゃぐちゃじゃない。

 手櫛で整えながら、予約していた店に、断りの電話を入れる。……お気に入りのお店に迷惑かけるのって、嫌な気分ね。また今度埋め合わせしなくちゃいけないわ。

 

 ――晶ちゃんも好きなお店だから、予約したのに……

 

 残念に思いながら、晶ちゃんにもメッセージを送る。

 電話も出来ないほど具合が悪いなら、心配だものね。婚約者の元で、気が休まらないでしょうし……そう思ったところで、文字を打つ指がピタリと止まった。

 

「……そうよ」

 

 晶ちゃんは、繊細なところがあるから……椹木相手に、強く出られないのよね。だったら、晶ちゃんに合わせて、待っていたって仕方ないんじゃないの?

 椹木邸に私が訪ねた時の、晶ちゃんの様子を思い出す。

 いつも、使用人なんかの目を気にして、おどおどしていた。私が、少しでも陽平のことを話そうとしただけで、「ここで陽平の話はしないで」って言うんだもの。

 

 ――よほど、椹木を恐れているのね。陽平とのことを疑われたら、酷い目に遭わされると思っているのかしら……

 

 ありえない話じゃないわよね。椹木貴彦は、誠実な人柄と言われているけれど……家の中でどうかなんて、家人くらいしかわかりゃしないわ。

 むしろ、外面の良い温厚そうな奴に限って、束縛は激しいものよ。

 

 ――『あの人の前では、いい子にしてないといけないから……』

 

 そういえば、そうよ。椹木家では、大人しくしてパーティのひとつもさせて貰えてないって、寂しそうだったわ。晶ちゃんは、賑やかなのが好きなのに、我慢させられているの。

 

 ――晶ちゃんは……椹木が怖いんだわ。でも、他に行くところがないって思ってるから、必死に我慢してるのよ。

 

 そう気づいてみれば、晶ちゃんが可哀そうでならない。

 幼いときから、不幸せな子だった。ご両親に、無理に後継者として育てられたせいで、甘え方を良く知らなくて。

 

 ――『俺、母さんに嫌われてるから。お前がオメガだったせいでって……ママが、ほんとのお母さんだったら、良かったのにな……』

 

 私の膝に凭れて、よく泣いていた晶ちゃん。

 あの頃、愛する夫が側に居なくて、不安定だった私は……ひとりぼっちだった。母親としての重圧に押しつぶされそうで。息子の陽平は難しい子で、私の気持ちを解ってはくれなかった。

 そんなとき……真っすぐに、私を必要としてくれる晶ちゃんに、救われたの。

 

「――ねえ、やっぱり椹木邸に向かって!」

 

 私は、運転手に命じる。車が進行方向を変えたのを、見守りながら――決意する。

 

 ――待ってて。晶ちゃん……私は、あなたの味方よ。

  

 だから、私があなたを救ってあげる。

 傍らのバッグを、きつく腕に抱く。椹木から、可愛い晶ちゃんを解放するための切り札を、私は持っている。

 あなたに出来ないことは、ママがしてあげるからね。

 


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