第230話【SIDE:晶】

 センターを出て、椹木さんは家に向かって車を走らせていた。

 

「晶君、辛くはありませんか?」

「……平気です。何ともないって、医師も言っていたでしょう?」

「そうですが……」

 

 心配そうな椹木さんに、俺は素っ気なく答えて、助手席の窓から外を眺めた。そっぽを向いても、視線を感じる耳が熱くなる。

 気恥ずかしくなって、早口に捲し立てた。

 

「椹木さんは、大げさなんですよ。少し具合が悪いくらいで、センターだなんて……俺の事なんて、放っておいてくださっていいのに」

「そんなわけには行きません。君は、大切な人なんですから」

「……っ」

 

 真摯な言葉に、唇がにやけそうになる。俺のことを、凄く心配してる素振りに、期待してしまうのを止められない。

 

 ――馬鹿だな、俺……この人が俺に優しくするのは、父さんに言われてるからだって。蓑崎のオメガだから以外、ないだろ?

 

 ぎゅ、と脇腹をきつく抓る。痛みを感じて、甘い感情を追いやるように。

 椹木さんは、俺の気持ちも知らず、穏やかに言葉を続ける。

 

「そうだ。城山さんには、ご連絡差し上げましたから大丈夫ですよ。お大事にと仰っていました」

「……ありがとうございます」

「今日は残念でしたが、次の機会はありますからね。何でしたら、我が家にお招きするのも良いですし」

「いえ。結構です」

 

 励ますような言葉に、首を振る。

 陽平と俺をくっつけようと必死なママを、椹木さんの家に招くなんて、恐ろしくてできない。ママは、強引すぎるよ。俺と陽平はそんなんじゃないのに。

 

 ――陽平が成己くんと別れたことに、ママも協力してるから。責任を感じているのかもしれないけど……

 

 でも、そのために俺を巻き込まれても困るって言うか。最初こそ、あの二人が別れたのは、俺のことも原因かなって思ったけど……成己くんの強かさを思えば、破局は秒読みだった気がするし。

 

 ――それでも、陽平の事を放っておけなくて、ずっと側に居たけど……最近のあいつの態度、酷すぎるし。

 

 散々、俺に甘えておきながら「成己と別れたのはお前のせい」なんてさ。結局、成己くんが好きなんじゃんって思ったら……これ以上体を犠牲にするのは、空しすぎるから。

 あいつは成己くんが好き。俺は、これ以上辛いのは嫌だ。

 だからこそ、ママに余計な真似してほしくないし、椹木さんにバレたくない。

 なのに――ぎり、と唇を噛み締める。

 

 ――あの、野江のクソ野郎! 余計な事しやがったせいで……ママと椹木さんが、接触する羽目になったじゃねーかッ。

 

 嵌められた苛立ちがぶり返して、閉じた目の奥が真っ赤になる。

 

――『最初から優しい婚約者を頼ればいいんですよ』

 

 ムカつくにやけ面で、人を窮地に追いやって……さすが、陽平を隠れ蓑に恋人と密会するだけあるわ。

 卑しくて、汚い男。ちゃらんぽらんの次男。

 一応は、良家のお坊ちゃんだと判断してた自分が、どれだけ甘いか思い知った。

 

 ――あいつには、いつか天罰を下らせてやる……けど、今は目立った動き出来ないんだよなあ。ほんと、ウザいなあ……

 

 物憂い気分で、ため息をつくと――額に指が触れ、目を見開いた。

 

「……っ、なんですか?」

「あ……驚かせましたね。眉を寄せていたので、頭が痛むのかと……」

 

 申し訳なさそうに、椹木さんが指を引く。

 ちょうど、赤信号に引っかかっていたらしい。じっと俺を見つめる椹木さんに、頬が熱くなり、顔をふいと逸らす。

 

「急に触らないで下さい」

「すみません」

「……べつに、驚いただけです」

 

 大の大人がしゅんとするのが居たたまれなくて、ついフォローしてしまう。すると、彼は安堵したように頬をほころばせていた。……俺の周りの奴って、手がかかるタイプが多い気がするんだけど。

 少し可愛いとか思って、慌てて頭を振る。

 

 ――アホか、俺。絆されちゃダメだって。

 

 つい放っとけなくて、面倒見そうになっちゃうのは悪い癖だ。

 いつも裏切られて、傷つくんだからさ。

 俺は、話題を変えた。

 

「何でもないですけど……椹木さんは、この後、会社に戻られるんですか」

「ああ、いえ。午後から休みを取りましたので、家に帰るつもりです」

「……!」

 

 さらりと言われ、胸が高鳴る。

 もしかして、俺の傍にいるために……とか?

 

 ――って、そんなわけないじゃん。この人、仕事人間なんだから! たまたま休みたい気分だったんだろ!

 

 胸に浮かんだ甘い期待を、必死に打ち砕く。

 期待して、傷つくのは嫌だ。期待するな……そう言い聞かせるのに、胸が震えるのがやめられない。

 

「あの……それなら、俺が夕飯作りましょうか」

 

 うっかり、こんなことまで口走っていて、自分に驚く。

 椹木さんも、俺の珍しい発言に驚いている。――恥ずかしくなって、深く俯く。

 

「……嫌なら、いいんですけど。買い物行かないと、たいした食材もないし……面倒でしょうし」

「あ……嫌なわけありません。嬉しいですよ! ですが、体調が悪い君にいいのかと……」

「俺が良いって言ってるんです。それに……体調は悪くないって、ずっと言ってるでしょう?」

 

 じっと上目に見上げると、椹木さんは嬉し気に目を細めた。鷹のように鋭い目が、優しくなる。

 

「ありがとうございます」

 

 彼の体から、ふわりと白檀の香りが溢れ出す。車と言う密室で、その香りをもろに吸い込んで……腹の奥がずきりと熱くなってしまう。

 

「では、買い物に……晶君?」

「あ……っ」

 

 太ももをきつく擦り合わせ、熱い吐息を吐く。下腹が崩れるように潤み、下着の中を濡らしてしまう。

 シートの上で、体を丸めると……固い手が背中に触れた。

 

「晶君、大丈夫ですか?」

「はぁ……椹木さん。俺……」

「買い物は後にして、先に家に帰りましょう」

 

 労わるように背を撫でられ、何度も頷く。椹木さんは、よどみなく車を走らせる。

 

 ――何でもいいから、はやく抱いて……

 

 自らの体を抱いて、燃えるような衝動に耐えた。浅ましい欲望に身を任せることは、耐えがたいけれど……堪えられない。

 少し優しい言葉をかけられたくらいで。

 

 ――『お前、椹木に惚れてんの?』

 

 陽平の声が甦る。

 悔しさに、カッとなるのに……体の熱が否定こそを「嘘」だと見抜いてしまう。



 

「晶君、着きましたよ」

「ああ……」

 

 邸について、車から抱え出される。

 俺は、蕩けるような意識の中で、椹木に抱きつく。

 

「さわらぎさんッ……はやく」

「はい。よく我慢しましたね」

 

 身をすり寄せても、椹木さんは穏やかなままだ。――この人は日常的に、オメガのフェロモンの遮断薬を服用している。

 アルファの獣性に身を任せたりしないためだって。立派で……偉い人だと思う。

 でも……オメガの本能が泣いて、寂しがっている。

 俺ばかりを乱れさせて、情けない思いをさせないで。

 

 ――もっと、乱れて欲しがってくれなきゃ、嫌だ!

 

 彼の首に縋りつき、唇を奪う。もう家についた安心感が、俺を大胆にさせていた。

 彼の唇を割り、激しく舌を絡める。唾液を啜る音が、辺りに響いた。

 もっと。もっとほしい……!

 

「晶君……」 

「さわらぎさん、俺をおかして……!」

 

 唇を離し、耳に熱い息を吹き込んだ、そのとき――

 

「し、晶、ちゃん……?」

 

 呆然とした声が、聞こえた。

 聞き覚えのある声に、一瞬で心臓が凍る。

 うそだ。なんで、こんなところに――激しく動揺しながら、背後を振り返る。

 

「……ヒッ」

 

 陽平ママが、驚愕の面持ちで立っていた。門に横付けしていた車から、降りてきたところだったらしい。

 目を限界まで見開き、お化けでも見たような顔をしてる。

 

 なんで、いるの……!?

 

 陽平ママの表情に、なにかがガラガラと崩れていく音が聞こえた気がした。




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