第225話【SIDE:晶】
――晶。これは、もうお前の持ち物ではない。
俺の本を取り上げ、父が言った。
……待って、父さん。
今回は調子が悪かっただけ。次は、ちゃんと一番をとるから。
――もう無理しなくて良い。お前はオメガなのだから。
必死に取り返そうと、伸ばした手は空を切った。父は俺から取り上げた本を、背後の小さな影に渡す。
――やはり、後継はアルファでなければな。
そして、小さな影は俺の本を抱き、父の隣に並び去っていく。
返せ……!
俺は、その背に叫ぼうと、息を吸い――
「……くん」
静かな声が、思考の戸を叩く。
「晶君」
「!」
はっと息を飲むと……朝の光を背負った椹木さんが、俺を見下ろしていた。
「晶君。具合が悪いのですか」
「……ぁ」
心配そうに額に手を当てられて、完全に我に返る。
朝だった。――椹木さんの家の寝室で、ベッドに横になっている。
――夢……?
ほう、と息を吐く。
嫌な夢の余韻に、心臓が不穏に鼓動していた。
「椹木さん……」
「すみません、起こしてしまいましたね。魘されていたようだったので……」
自分を覗き込む男の名を呼ぶと、幾分ほっとしたような声がかえる。彼はスーツを着て、出勤前のようだった。
……俺だけ寝転んでるなんて、バツが悪ぃな。
起き上がろうとすれば、押し止められた。
「寝ていてください。顔色が、悪いですよ」
「……っいえ。何にもありません」
指先で、冷や汗で額に貼り付いた前髪を、そっとのけられる。子供をあやすような仕草に、胸がざわついて、寝返りを打った。
「大丈夫です。もう少し、寝るので……どうぞ行ってください」
身じろぐと、腰が鈍く痛む。昨夜の行為のせいだった。そんな事も悔しくて、布団を耳まで引き上げる。
「……すみません。でも、何かあったら連絡して下さいね」
そんなこと出来るわけ無いだろ、と思った。
忙しいのわかってて……困らせるってわかってるのに。
――俺は、アルファに甘えて当然なんて思えない。……思いたくない。
それでも、背後の気配は動かない。――俺が了解するまで、動きそうに無くて、仕方なく頷いた。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
背を向けたまま、呟くと――背後で戸が閉まる。
「何か心配事があるなら、話して下さい」
と……彼は、言い残して行くのを忘れない。
「……はっ」
乾いた笑いが漏れる。冷たい婚約者に……どこまでも親切な、あの人に。
――だから、なにも言えるわけないのに。
暗い気持ちで唇を噛み締めた。
このところ連続している、悪夢。父さんに、見捨てられた日の再現だ。
――『晶、お前を後継から外す』
八歳のあの日、俺はあの人の息子じゃなくなった。
見上げた父の目には、憐憫しか見えなくて。オメガである俺は、失望さえしてもらえないのだと……その時、初めて知ったんだ。
俺に期待しない人に、どうやって挽回すればいい?
あの日から、捨てられる恐怖が胸にこびりついてる。俺がオメガである限り、一生拭えないんだ。
絶望に、叫び出したくなる。
『――話して下さい』
そんな俺が、どうしてあんたを頼れる?
自分こそが、俺をどん底に突き落とすと気づこうとしない。――どこまでもアルファでしかない、あんたを。
「くそっ、どいつもこいつも……!」
傍にあった枕を掴み、壁に投げつけた。
「……っ」
アルファが憎い。
俺から簡単に奪い、それがどれだけ残酷なことか気づきもしないあいつら。
――椹木さんも、父も……陽平だって!
みんな、親切なふりだけして……俺が欲しいものは絶対に与えない。
衝動的に、花の紋様に爪を立てたときだった。
――コンコンコン。
ノックの音が響く。
ドア越しに、使用人が声をかけてきた。
「おはようございます、晶様。入っても良うございますか」
「あ……はい」
頷くと、音も立てずに中に入ってくる。
「お加減が悪いと伺いました。朝食は、いつも通りご用意させて頂いておりますが……おかゆなどの方が良うございますか?」
「ん、大丈夫です。それより……お風呂に」
「かしこまりました」
この家の使用人は、事務的に過ぎるものの、有能だ。情交の匂いの残る部屋に入っても、眉一つ動かさない。
今も、たんたんと朝の支度を済ませている。
しかし、次に使用人が伝えたことは、最悪だった。
「晶様。先ほど、城山様からご連絡がありました」
「え……」
「昼食を一緒にと。正午にいらっしゃるそうです」
「……っ!」
俺は、さっと青ざめる。
使用人に受け答えしながら、気持ちがどん底になった。
――また、陽平ママは……! 来ないでって言ってるのに!
このところの悪夢の原因は、わかっていた。
また、全てを奪われそうな――嫌な予感だった。
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