第223話

「……くしゅっ」

 

 ふいに出たくしゃみを、手で押さえる。隣を歩く綾人が、目を丸くした。

 

「お、風邪か?」

「ううん。なんか、鼻がむず痒くて」

 

 さっき歩いてきた、庭園の花粉かな。すんと鼻を啜ると、綾人が心配そうに眉をひそめた。

 

「無理すんなよー。今朝も、めずらしく寝坊してたろ?」

「あうっ」

 

 ごめんなさいっ。

 綾人の純粋な目が見られません。だって、朝寝坊の原因は昨夜、宏ちゃんと、その……

 

 ――宏ちゃんてば。望むところとは言ったけど、あんなに……

 

 ぼわわ、と頬が熱る。

 おかげで大寝坊して、お弁当も作らなくて……心のなかで自分をぽかぽか殴る。

 しゃきっとしなくちゃ!

 

「大丈夫! ぜんぜん元気やで」

「そうか?」

「うんっ。行こう!」

 

 ぼくは綾人の手を引いて、セキュリティゲートを通り抜けた。職員さんに、笑顔で挨拶をする。

 

「こんにちはっ、向さん」

「こんにちは、成ちゃん。いらっしゃいませ、野江様」

 

 ちなみに、今日はセンターに来ています。

 宏ちゃんが、お兄さんの様子を見に行ってくれていてね。その間、「家に二人になるのは心配だから」って、センターに送ってくれたん。

 

「オレ、ここのセンター来たの初めてだ。いつも、実家に近い方に行ってるから」

「そうなん? ぼくも、ずっとここやから……やっぱり違う?」

「うん。オレのとこは小さくて、もっと病院っぽいつーか。こんな明るい感じじゃないかも」

 

 綾人が物珍しそうに、館内を見回している。

 そう言えば、オメガセンターにも、それぞれの特色や方針があるんやっけ。どのようにすれば、オメガが良いパフォーマンスを発揮できるか――まだ国の方も手探りで、色々模索してはるんやって。同じなのは、セキュリティの堅固さくらい――

 そこまで考えて、ふと疑問が湧きおこる。

 

 ――セキュリティって言うと……どうして、今日はセンターなんやろう?

 

 うさぎやには、野江の強固なセキュリティが導入されてるん。宏ちゃんもそれを知ってるから、今までは普通にお留守番してたのに。

 

 ――宏ちゃん、何か心配事があるのかな。

 

 いつか、お店の外を見てる宏ちゃんが、険しい雰囲気を纏っていたことを思い出す。 

 ……もしかして。お兄さんが入れ違いに来て、綾人を連れ戻されないか心配してるのかも。

 

 ――すごくありえる……! ぼく、わかったよ、宏ちゃん!

 

 宏ちゃんは、用事が終わったらセンターに迎えに来てくれるって、言ってた。それまで、ぼくが綾人を守るんだ。

 固く胸に誓っていると、綾人に肩を引き寄せられる。

 

「成己、なんかいい匂いする!」

 

 久しぶりの外出に、綾人は嬉しそうやった。

 輝く笑顔を見ているうちに、ぼくも久しぶりの実家に気持ちが浮きたってきた。にっこりと笑い返す。

 

「あっちに食堂があるんよ。ちょうどお昼やし、食べてこっか!」

「賛成!」

 

 

 



 

 

 ぼく達は、食堂で冷やしぶっかけうどんを頂いて、図書室に向かった。

 センターの図書室は蔵書数が多くて、勉強するにはうってつけ。センター職員とオメガは身分証を見せれば、いつでも無料で利用できるんよ。

 

「はあ、腹いっぱいで眠くなって来た……」

「わかる~……」

 

 長い廊下には、大きな窓から明るい日差しが差している。庭園の緑が光に透けて、白い廊下を染めていた。

 満腹にはこたえられなくて、ふたりで欠伸をしながら歩いた。

 

「成ちゃん、久しぶり。眠そうだね」

「お久しぶりですっ。えへへ、ご飯食べて来て……今から、綾人さんと図書室に行くところなんです」

「そう、良かったねえ。野江様、御用があれば何なりとお申し付けくださいね」

「あっ、ありがとうございます!」

 

 通りすがる職員さんたちと、軽く言葉を交わして見送る。みんな忙しく働いているのに、顔を見ると声をかけてくれてくすぐったかった。

 綾人が、ニコニコと肩を突いてくる。

 

「ここって、良いとこだな! 飯も美味いし、あちこち綺麗だし。会う人みんな、親切でさ」

「えへへ。ありがとう!」

 

 実家を褒めて貰えて、自分の事みたいに嬉しくなる。ぼくは俄然張り切って、綾人の手を引いた。

 

「今から行く図書室もね、お気に入りの場所やったん。綾人に見て欲しいな!」

「おう、楽しみ。なあ、そういや成己の部屋は? どこなん?」

「あ。ぼくの部屋は――」

 

 綾人に応えを返そうとしたとき、廊下の向こうから足音が近づいて来た。

 静かな話声は二種類あるみたいで、両方聞き覚えのあるもので。しばらくして、その主が姿を見せた途端、ぼくと綾人は同時に「あっ」と声を上げた。

 

「成己くん! と……野江様!?」

「中谷先生!」

 

 向かいで目を丸くしているのは、中谷先生。そして、もう一人。

 

「椹木さん!」

「こんにちは、田島さん。宏章さんの奥様も。偶然ですね」

 

 声を上げた綾人に、穏やかな物腰で会釈したのは、椹木さんやったんよ。

 

 

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