第214話
「あー、満足だぜ!」
満面の笑みを浮かべた綾人が、ぱん! と手を合わせる。ぼくもゆるゆるの頬で、何度も頷く。
「美味しかったねえ。宏ちゃん、ごちそうさまですっ」
「お粗末さま」
宏ちゃんが穏やかに言って、目を細める。
特製のホットケーキに舌鼓を打って、和やかなムードやった。ぼくは、温かい紅茶を一口飲んで、宏ちゃんの横顔をじっと見つめる。
――もう、いつもの宏ちゃんや。
さっき、お店の外を見てるときね。何だか、ぴりぴりしてるみたいやってんけど……
「ん? どした」
視線に気づいた宏ちゃんが、不思議そうに微笑む。ぼくは慌てて、首を振った。
きっと、気のせいやんね。
「ふぃ~、リフレッシュしたし! オレは勉強でもするかな」
と、綾人が明るい声で宣言して、立ち上がる。休憩室に駆け込んでいったと思うと、透明なプラスチックの鞄を抱えて、出てきた。
「綾人、お勉強してるん? えらいねぇ」
「いやあ、模試があるからさ。ちょっとやっとかんと、ヤバいかなって」
もし?
きょとんとしていると、綾人が照れたように頬をかく。
「オレ、一応受験生だから。つか、浪人生なんだけど」
「えぇ?!」
びっくりして、叫んでしまった。
――綾人、受験生やったん!?
宏ちゃんも知らんかったのか、目を丸くしてる。
「色々あって、今のタイミングなんだけどさー。朝匡が、「うちで働くなら、大学は出とけ」っつうもんだから。有り難く行かしてもらうかと」
「そうなんやぁ。ちなみに、どちらを?」
「あー……この近くの大学デス」
おずおずと返ってきた答えに、ちょっとギクッとした。
この近くの大学と言うと……陽平の通っているところやったから。
「朝匡が、そこならいいぞって。なーんで、よりによって、日本で一番賢いとこなんだよな?! あいつ、オレがすげーバカなの解ってて、嫌がらせか?」
綾人はぷんぷんしながら、拳を握りしめる。
ぼくは、「そんなことないよ」と苦笑してしまう。
――お兄さん、綾人と絶対離れたくないんやろなあ……強引すぎて、伝わってないですよ……
ここ以外やと、遠方の大学になるもんね。
宏ちゃんも同じことを思ってたのか、「仕方ないな、兄貴は」と笑っていた。
「それにしても、綾人ってば。受験生なんやったら、遠慮せんと言うてくれたらええのにっ。サポートさせてよー」
ぼくは、ずいと身を乗り出した。
受験生にとって、夏は正念場じゃないですか。ぼくときたら、「映画見よ~」って誘ったりしてたやん。
綾人は、頬を赤らめて、目を泳がせた。
「いやあ。言ったらさ、一緒に遊んでくれねえかなーって」
「……綾人ってば!」
あんまり可愛い答えに、爆笑してしまった。
ひとしきり笑ったあと、宏ちゃんが目尻を拭いながら、言う。
「まあ、息抜きは適当にするとして。勉強時間は確保出来るよう、計らうからな。店長として」
「っす。ありがとうございます、宏章さん」
綾人は、ニカッと笑った。
それにしても、びっくりした。
その日の深夜――宏ちゃんとベッドの中で、しみじみと話す。
「綾人が受験生やったなんて。そういえば、はやくに「寝まーす」ってお部屋に引き上げてたけど。あれ、お勉強してたんやなぁ」
「そうだなあ。知らずに、「気晴らし旅行に行こうぜ!」って誘わなくて良かった」
「せやねえ」
ノリがいい綾人の事やから、快くつき合ってくれそうやもん。実際、「おうちシアターしよ」って言うたら、全部付き合ってくれてたし。
――こ、これからは、きちんと応援せなね。綾人はただでさえ、お兄さんのことで悩みが多いんやもんっ。
むん、と布団を握りしめ、決意を新たにする。
今夜はバイト初日やったし、早く寝るらしいねん。やから、明日からは全力サポートしようと思って、好きな夜食も聞き出してきたんよ!
意気込んでいると、宏ちゃんに頭を撫でられる。
「いいなあ、綾人くん。成のおにぎり……」
「えへ。宏章先生にも、明日持って行きますね。原稿のおともに」
「おっ、サンキュ」
笑った宏ちゃんが、ふと寝返りをうった。肘をついて、ぼくの顔をじっと見下ろしている。
「どうしたん?」
「うん……お前は、何かしてみたいことないか?」
「えっ」
ぼくは、目を丸くする。指先が、優しく頬を撫でてった。
「成はさ。いつも、俺のために尽くしてくれるだろ。もっと、お前のしたいこともして良いんだぞ?」
ぼくは凄くびっくりしたけれど――胸がほわほわと温かくなった。
宏ちゃんは、「お兄ちゃん」の目をしてる。高校受験とか、大事な節目に相談すると、いつも親身になってくれたときの。ずっと、心配してくれてるんやね。
ぼくは、ぎゅっと温かい手を握った。
「宏ちゃん、ありがとう。でも、ぼくね。したい事してるよ!」
「そうかあ?」
「うん。ぼく、宏ちゃんの側に居たいねん」
そう言うと――切れ長の目尻が、ぱっと赤く染まる。
ぼくは、ふふと笑った。
お兄ちゃんも、旦那さんもするのは大変やんね……でも、嬉しいなって思う。ずっと一緒にいた、ひろにいちゃんやもん。
手のひらに頬を寄せて笑っていると、宏ちゃんに抱きしめられる。
「ったく……成には敵わないな」
「えへへ」
笑ったままの唇に、キスが落ちる。……やわらかな感触に、うっとりしちゃう。
「宏ちゃん。ぼく、幸せ」
「うん。俺もだよ」
宏ちゃんはぎゅうと腕に力を込めた。穏やかな森の香りに包まれて、頬がほころんだ。
「なんつーか……俺はさ、我がまま放題にやって来たからなあ。お前を見てると、いじらしくて」
「そうかなあ……? あっ。ところで、宏ちゃん……この手はっ」
ぼくは、腰のあたりで怪しい動きをする手を、ちらりと見下ろす。今にもパジャマに潜り込んできそうな……正直すぎる、大きな手。
「だめか?」
悪戯っぽく笑われて、胸がきゅんとする。
ぼくはちょっと伸びあがって、薄い唇にキスをした。
「ううん……全然だめとちゃうっ」
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