第213話【SIDE:陽平】

 淡い色のやわらかな髪が、風に揺れていた。

 幸せを口に含んでいるように、ほほ笑みをたたえた頬……すべてが成己らしく、変わっていない。

 

「……っ」

 

 喉がぐっと詰まる。感傷的な気分になっているのかもしれない。

 釘付けになる俺に気づかず、成己は店先を掃除しはじめた。

 

「~♪」

 

 風に乗って、微かに鼻歌が聞こえてきた。いつも、家事をする時に、口ずさんでいたメロディ。

 離れていたのは、たったひと月程のことだ。なのに、ひどく懐かしいと感じる。

 

 ――変わってねぇ、ちっとも。

 

 俺の家でもあんな風に、楽しそうに動いていた。――今は、野江の家で同じようにしてやってるのか。

 

「……うぐ」

 

 胃がむかついて、手のひらで口を覆った。

 吐き気を覚えながらも……成己から目が離せない。てきぱき動く背中で、エプロンの蝶々結びが揺れている。

 俺は、道を挟んだ建物の影に立ち尽くし、成己を見詰めた。

 勢いこんで来たのに、いまさら躊躇している。

 

――……成己は、どう思う? いきなり俺が来て……

 

 この前会ったときは、酷い態度を取ったと思う。散々泣かせたし、その後も避けられていた気がする。

 その俺が、いきなり現れて。まして、こんな物を渡して……あいつはどう思うんだろう?

 

――『……来ないで!』

 

 恐怖に青褪めて、嫌悪の目を向ける成己を想像する。

 考えただけで辛い。でも――ショッパーの持ち手を、ぎゅっと握りしめた。

 

「違うだろ。あいつは……そんな奴じゃない」

 

 お人好しで、優しい奴だ。――もう、見誤っちゃいけない。

 いつのまにか、成己は掃除を終えようとしていた。店先に置かれていた看板を、両手に抱えている。

 行ってしまう。

 

「……成己!」

 

 焦りに背を押され、俺は一歩踏み出しかけた。

 その時だった。

 

「成ー」

 

 自信に満ちた低音が、成己を呼んだ。店のドアから、あの男が長身を屈め姿を現す。

 

 ――野江!

 

 野江の登場にぎくりとし、俺はその場に釘付けになった。

 振り返った成己は、にっこりと笑った。おどけて看板を奪った野江に、くすぐったそうな眼差しを向けている。あの男は蕩けるような笑みを浮かべて見せ、成己を店の中へ入るよう、促した。

 焦げ付くような思いで見つめている俺に気づかず……成己は店に入ってしまう。

 

「あ……」

 

 俺は、呆然と立ち尽くす。あっけない幕引きに、握りしめていたショッパーが、にわかに重みを増した気がした。成己の戻った店内から、明るい笑い声が届き、胸が熱く疼いた。

 

 ――くそ……タイミングを逸した。

 

 あの男が来なければ――苦々しい気持ちで、目を上げて、ギクリとする。

 

「――!」

 

 野江が、こっちを見ていた。ドアに肩をつけ、店内の様子を遮るように立ち――俺を観察するように。

 グレーの目は、動物のように無感情に見えた。が……警告しているのが、肌でわかる。

 一歩でも近づいたら、わかってるな、と。

 知らず、ごくりと喉が鳴る。米神を、汗が伝った。――上等だ、てめえなんか……そう思うのに、足を踏み出すことができない。

 

「!」

 

 突如――にらみ合いを破るように、背後でちりんちりん、と軽い音が鳴った。隣を、さあっと自転車が行き過ぎていく。驚き、緊張が急激に弛緩して、手からショッパーが滑り落ちた。

 

 ――がしゃん。

 

 物の壊れる、呆気ない音が響く。

 

「あ」

 

 遅れて、間の抜けた声が俺の唇からこぼれ出る。

 俺は棒立ちになり、アスファルトに横たわるショッパーを見下ろした。「壊れた」……そう頭の中で理解した刹那、強い風が巻き起こり、微かな花の匂いが鼻腔を撫でる。

 

「……っ」

 

 何も、考える余裕はなかった。

 身を屈め、ショッパーを攫うように拾い上げると、俺はその場を去った。

 

 





 

 バタン!

 家に帰りつき、背中ごしにドアを閉める。

 

「はぁ……」

 

 荒々しい鼓動を宥めるよう、息を吐き――ずるずると、ドアを滑るように座り込む。

 手の中のショッパーが、しなだれるように床に倒れた。俺は緩慢にそれを見下ろし……手を突っ込んで、取り上げてみる。

 長方形のラッピングされた箱。一角がへしゃげ、中身がしみ出しているのか、濡れていた。

 

「……ああ」

 

 雑にラッピングを解き、箱を開けて、その有様に気分が暗くなる。

 無残に割れた透明の瓶から、とろりと精油が溢れ出し……中の花も縺れて、よれてしまっていた。

 少し前まで、ハーバリウムだった、残骸。

 



 ――『大切な方への贈り物に、いかがですか?』

 

 そんな謳い文句につられ、さ迷いこんだ専門店で……瓶に詰められた色とりどりの花に、ふと成己を思い出した。

 サボテンなんかを可愛がって、いろいろ話しかけている背中。センターの庭園を歩く、弾む足取り。俺があちこちで貰って帰る花束を、嬉しそうに活けている横顔……

 

 ――あいつ、こういうの好きじゃねえかな。

 

 オーダーメイドのハーバリウムが作れると知って、晶の目を盗み、何度も店に足を運んだ。どうせ、「ベタだ何だ」と揶揄われると分かっていたから。

 

 

「はは……めちゃくちゃ。台無しだな……」

 

 割れた瓶の中、花が濡れてしおれている。

 ピンクのアジサイ、カスミソウ、赤い薔薇……担当の店員と相談し、選んだ花だった。

 指で、濡れた花に触れる。……確かに、ベタかもしれない。花言葉で花を選んで、誕生月に合わせた色味にして……なんてな。

 けど、成己は、こう言うものを喜ぶと思って――

 

「……いや」

 

 たとえ、趣味じゃなくても。

 あいつはにっこり笑って……「嬉しい」って、受け取ってくれると思ったんだ。

 

「……ッ!」

 

 喉の奥を、熱いものがせり上げてきた。

 頭が鈍く痛み、息が苦しくなる。俺は、たまらない気持ちになって、手を振り上げた。

 

「くそ……くそっ!」

 

 腿を、きつく打ち据える。何度も、何度も――鈍い痛みが走ったが、どうでもよかった。

 

 ――成己に、これを渡してやりたかった。あいつの誕生日に……!!

 

 焼けつくほどに、思う。

 そうしたら、あいつは嬉しそうに笑ったはずなのに。

 

 ――どうして、その日は来なかったんだ?

 

 晶に騙されたせいで。あいつに踊らされて……全部、台無しになってしまった。

 

「畜生……!!」

 

 呻いて、何度も頭を掻きむしった。甘酸っぱい花の匂いが、薄闇に飲まれる玄関に満ちる。

 俺は、長い間――そこに一人、項垂れていた。

 

 

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