第212話【SIDE:陽平】

 婚約破棄を言い渡した日のことだ。 

 

――『行き違いがあるのかもしれへんよ? 蓑崎さんも、結婚したいとまで、思った人なんやし……』

 

 成己は身投げでもするように、必死な顔で話していた。――どうか考え直して欲しい、晶のことは婚約者に任せるべきだと。

 当時は、自己保身にしか思えなくて、ただ煩かった。今さら何を言われても、俺は心を変えるつもりはなかったし。耳を貸さないことが、決意の表れだとさえ思っていたから。

 

「……あ」

 

 はっ、と目を見開いた。

 ……ひょっとして、成己は何か解っていたのだろうか。

 何か、オメガの勘で、俺に見抜けない晶の嘘を、感じ取っていたのか。

 思えば、成己はいつも、晶のことを気遣っていたじゃねえか。――泊まりに来ても、いつも嫌な顔ひとつしなかった。快く飯を作り、洗濯をして、大学に送り出してくれた。

 そんなあいつが、「晶を許せない」と言ったことを、もっと重く受け止めてやるべきだったんじゃないか。

 

 ――『陽平、考え直して。別れたくないよ……』

 

 ひたすらに悲しそうな顔が、甦ってくる。あの日成己は、晶と俺の関係を疑っていながら――必死に、俺に縋りついてきた。プライドを捨てても、俺を失いたくない、と。

 

「成己……」

 

 胸がぎゅっ、と締め付けられる。

 

 ――成己は、なにも変わっていなかったんだ。

 

 晶が嘘だったと分かった今、ねじ曲がっていた成己の像が、もう一度クリアになっていく。薄情に思えていたあいつの言葉が、真っすぐに胸に届いた。

 晶に騙されて、あいつのことを信じなかったことが、痛いほど悔やまれた。あいつは、きっと……晶の欺瞞に気づいて、俺のことを心配していたんだろうに。

 俺は、ノイズに振り回されて、信じなかった。

 

 ――そうだ、野江とのことを疑っていたから。お前こそ、自分を棚に上げて何言ってんだって……

 

 ごろ、と寝返りをうつ。膝を抱えて、呻いた。

 本当はもう、わかっている。

 あのとき成己は……野江に指一本、触れられていなかったって。

 

 ――『陽平、恥ずかしいよ……』

 

 羞恥に震え、今にも逃げ出したそうにしていた。あの日、俺の下で震えていた成己のカラダ――

 

「……っ」

 

 どこもかしこも綺麗で、触れられた痕なんて見当たらなかった。足を開かせて、丹念に確かめた秘所も……無垢そのもので。

 あの体が、他者の蹂躙を受けているはずがなかった。

 俺はアルファだ。どれだけ丹念に、痕跡を消しても――体内に他人を受け入れたかどうかくらい、簡単に嗅ぎ取ってしまうんだから。

 

「……俺は……」

 

 間接が白くなるほど、手を握りしめる。

 成己は怯えて、震えながら――従順に、俺に身を差し出していた。奥手でお堅いあいつが、どれだけ勇気を絞ったのか……今さらながらに、思い知る。 

 なのに俺は、怯えを拒絶だと思い、あいつを跳ねのけてしまった。

 

 ――……馬鹿だな、俺は……

 

 成己の泣き顔が浮かんで、胸が締め付けられる。

 野江と関係を持っていると、思いたかったのは……晶を信じたかったからかもしれない。成己が悪いと思わなければ、晶を信じ切ることは出来なかった。

 まして――成己を憎んで、突き放す事なんて出来なかったはずだ。

 

「……はは」

 

 今さら、気づいたって遅えよ。

 体から力が抜けていき、床にだらんと伸びた。

 成己はもう、野江と結婚しちまったんだ。

 

 ――そういや、センターに行ったほうがいいのかって、成己に泣かれたな……

 

 そんなことは、考えてなかった。成己に不幸になれなんて、思ってないけれど――あいつが、他の男のものになることが、耐えられなかっただけだ。

 

『陽平、おはよう』

 

 俺の隣で嬉しそうに目覚めるときの……笑顔。あれが、野江のものになるなんて、今でも信じられない。 

 ……手放すんじゃなかった。

 後悔で胸が苦しくなって、寝返りをうつ。すると――クローゼットが目に入った。

 成己への誕生日プレゼントがある。

 

――『ひどいよ、陽平……!』

 

 ぼろぼろと涙をこぼして、怒っていた成己を思い出す。

 あの時のあいつは。野江の妻らしく上品な絽を纏いながら……俺に必死に訴えていた気がする。――「どうして、わかってくれないんだ」って。

 野江の元に居て、なお……あいつの心には俺の影がある。

 

「……!」

 

 俺は、がばりと身を起こした。

 成己のプレゼントをつかみ取り、部屋を飛び出した。

 

 ――行かないと……!

 

 がむしゃらに走り、成己のもとへ向かう。

 ずっと、成己のことを誤解していた。今更、どうにもならねえかもしれねえけど……あいつに、きちんと想いを伝えたかった。

 俺だって、誕生日を楽しみにしていた。お前と、結婚するつもりで……伝えたい言葉があったことを――

 

「成己……!」

 


 あいつが野江の元にいるのは、解っていた。

 何度か連れて行ってもらった、あの男の店まで走り続け――着いた頃には、閑静な住宅街に夕焼けが差していた。


「あいつの店は……」


 道筋を辿ってゆくと、笑い声が聞こえてきた。


「じゃあ、また来るよ」

「ありがとうございますっ」


 はっと息を飲む。あの柔らかな声は………会いたかった奴の顔がすぐに浮かんだ。


――成己!


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