第200話【SIDE:陽平】

 俺は、呆然と立ち尽くしていた。

 あの男の店の中に、戻っていった成己を見送ることしかできない。


――何をやってんだ。こんなつもりじゃ……


 ただ、これを渡しに来ただけなのに。右手にさげた、ショッパーの持ち手をきつく握りしめた。








 ときは、数日前に遡る。

 熱に浮かされて、俺は夢を見続けた。

 その大抵は悪夢だ。意識が覚醒するたびに、自分がもう大学生で、ここが実家じゃないんだと確認する。

 

「……は」

 

 そして、やっと安堵の息を吐く。具合が悪いと、いつもこんな風になるから、嫌だった。

 

 ――最近は、ここまで最悪じゃなかったのに。

 

 布団にくるまって、手足を縮める。うう、と喉の奥で呻きを押し殺し、頭を抱えた。――本当は、不安に叫びだしたいのを堪えながら。

 眠りたくない。寝たって、疲れなんか取れやしない……

 そう思うのに、意識は必ず途切れて、また夢を見る。



 

 

『……やめて、そんなもの!』

 

 引き攣った、泣き声が響く。

 

『お母さんだってねえ、人間なんだから。あんたの機嫌を取るために、生きてるんじゃないわよッ!』

 

 母さんだ。母さんが泣きわめいて、使用人に取り押さえられている。

 俺は呆然と、恐ろしい形相の母を凝視していた。――小さな手の中で、カーネーションがしおれていく。

 

『……なんで?』

 

 幼い俺は、痛む頬を歪めた。花を渡した途端、引っ叩かれたんだ。

 

――俺はただ、「お母さん、ありがとう」って。伝えたかっただけなのに。

 

 小等部に上がったばかりの頃だ。

 父さんが、仕事で家を空けがちになって、家には母さんと使用人だけになった。母さんは、父さんと離れて、情緒不安定だったのだと思う。そして……その不安を飼いならす方法も、今ほどは知らなかった。

 

『私、頑張ってるのに! なんで解ってくれないの!』

 

 母さんはよく暴れて、使用人や俺を責めた。

 

――『なんで、母さんはこうなんだろう?』

 

 幼心に、母さん”が”俺を傷つけていることは、わかっていた。

 母さんは、いつもは優しくて……俺を愛してると言う。でも、それが長続きしない。風邪をひくみたいに俺を嫌いになって、邪魔にする。

 

『そりゃ、お前が甘えてるからだって』

 

 晶は、呆れかえって言う。――場所が子供部屋に移っていた。遊びに来た晶に、母の日のことを話していたんだ。

 

『甘えてるって?』

『自分の子どもだからって、何でも許せるわけないじゃん。他人と一緒で、あんまり甘えてたら、ウザくなって当然だろ』

『……』

 

 子どもらしくない表情をするせいか、晶は同年代の誰より大人に見えた。晶の言葉は的確に思えたし、その分きつかった。

 だって、親に愛されていたいのは、子どもの純粋な欲求だろう。

 

『お前が悪いんだよ。カーネーションなんか渡して、「ママらしくいろ」って言ったから』

 

 晶の言う事は、もっともだと思った。母さんは不安定で、俺は子供とは言えアルファだ。守ってあげないと、いけない。

 

 ――でも……なんで、俺ばかり我慢するんだろう?

 

 いつも、喉の奥から出かかっていた。――なんで、俺ばかり。俺の気持ちは、誰が聞いてくれる?

 

『晶ちゃん、ありがとう!』

『当然だよ! 陽平ママのこと、大好きだから』

 

 晶の渡したプレゼントのぬいぐるみごと、あいつを抱きしめて、頬ずりする母さん。

 俺は、遠巻きに二人の様子を眺め、空しかった。

 

『陽平ちゃんは、こんなことしてくれないの。本当に嬉しいわ』 

『マジ? まあ、陽平なりに考えてるから、許してあげて』

『ありがとうね。晶ちゃん、いい子ね』

 

 俺は、いったい何なんだろう?

 ただ喜んでほしかったのに……母さんに泣かれ、晶に責められて。

 どうして、何が悪かったのか……「なんで」って、言いたかった。でも、「なんで解らないの」って言われるだけだって、わかっていて、何も言えなかった。


 

「ちくしょう……」

 

 唇を噛み締めて、涙をこらえていると……そっと抱きしめられる。溶けるようにやわらかで、優しい腕の感触に、息を飲んだ。

 

「陽平、話して?」

 

 優しい声が言う。

 

「陽平の気持ち、聞かせて。ちゃんと話したいから……」

 

 そのとき――ふわり。優しい香りが、夢に入り込んでくる。咄嗟に、伸ばした手が……ふわふわと柔らかなものを握りしめた。





 

「……っ」

 

 そろそろと薄目を開けると、見慣れた天井が見えた。閉まりっぱなしのカーテンから、白い光が透けている。

 起きる前から、体が軽いのがわかった。この二日、ずっと纏わりついていた倦怠感が消えている。

 

「……あ」

 

 自分が、思い切り握りしめているものを見て、はっとする。

 ひょっとして、夢の中で掴んだ柔らかな感触は、これだったのか。

 

――『陽平、風邪ひくとあかんから。これ、かけとき?』

 

 ……あいつがお節介して、かけてきた夏用のブランケット。

 やわらかくて、軽いのに暖かい。これがあれば何とかなる気がして、ずっと探していた。

 

「あいつ……」

 

 ブランケットを畳みなおして、唇を噛み締める。

 これを見つけたのは、成己の部屋の衣料箪笥だった。綺麗にパッキングして、仕舞ってあったんだ。「To Narumi」って……小さな刺しゅうがある、ブランケットと同じ柄の、袋と一緒に。


「くそ……!」


 道理で、俺の所には無いはずだ。顔を埋めると、ほのかに淡い花の香りがする。

 ずっと俺のものだと思っていたのに、成己の私物だった。素知らぬ顔で、あいつが俺に与えていたのだと知り、どうしようもない気持ちになる。


――なんで、今さら気づかせるんだ。お前は……


 手の中のやわらかさが憎い。でも、引き裂く真似はもうできそうになかった。

 


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