第198話

 その日の夜のこと――ぼくが寝室に戻ると、宏ちゃんはスマホでお電話中やった。

 

 ――あっ。いけない。

 

 慌てて、廊下に引き返そうとすると、手で押しとどめられる。……いいのかな? ドアノブを握ったまま、迷っているうちに、宏ちゃんは会話を畳んでいた。

 

「……うん、わかったって。俺に管巻かれても困る……もう切るぞ? じゃあな」

 

 スマホをサイドチェストに置いて、宏ちゃんはすまなそうに笑った。「おいで」って手招かれ、ぼくは彼の隣に腰を下ろす。

 

「ごめんな、成。待たせちまった」

「ううん、ぼくこそ。大丈夫やった、お電話……」

 

 ぼくのせいで、お話を中断することになったんちゃうやろか。不安が伝わったのか、宏ちゃんは頭を振った。

 

「平気だよ。ただの兄貴だから」

「お兄さん……! なんか言うてはった?」

 

 お兄さんのしかめっ面が浮かんで、ごくりと唾を飲む。……綾人を連れ戻す、とかやったらどうしよう。宏ちゃんは、顎を撫でながら言う。

 

「そうだな……綾人君が居なくて、堪えてきてるのは確かだが。「いつ帰ってくるんだ」しか、言わないから」

「そっか……お兄さん、まだ怒ってはる?」


 宏ちゃんは、少し黙った。それは肯定の意味で、ぼくはしんみりしてしまう。


――お兄さんは……綾人がショック受けてるの、気づいてないのかな……?


 泣いていた綾人を思っていると、大きな手に頭を撫でられた。


「宏ちゃん……」

「ごめんな。不器用な兄貴で……お前に、こんなに心配かけちまってる」

「どうして、宏ちゃんが謝るん。心配なんて当たり前やんか」


 ぎょっとして、宏ちゃんを見上げる。灰色がかった目が、困ったように笑んでいた。


「兄貴はさ、いい加減にしろとは思うよ。……けど、アルファとして、わからんでも無くて。どうも、諌めきれない」

「えっ」


 ふいに、抱きあげられ、お膝に乗せられた。深い森の香りに包まれて……ほう、と息を吐く。


「兄貴が綾人君を束縛するのは、アルファの本能だ」

「!」


 宏ちゃんは、静かな――どこか熱を帯びた声で話す。


「アルファとして、否定しきれない。俺だって……成を家に閉じ込めたい。全て俺のものにしたい、っていつも思ってる」


 切ない想いを明かされ、息を飲んだ。――宏ちゃんが、どれだけ……ぼくに優しいのか思い知って。


「……宏ちゃん」


 がっしりと逞しい肩に、頬をくっつける。力強い腕は、ぼくを逃さないって言ってるみたい。それでも、痛くも苦しくもない強さに、胸がきゅう、と甘痒くなる。


――宏ちゃん。ぼくだって……ずっと傍にいたいんよ。


 切なくてたまらない。筋の浮いたがっしりした首に、すがりつく。


「……ごめんな。怖いか?」

「ううん、嬉しい……すごく」


 見つめ合ううちに、唇が重なった。やわらかく侵入してきた舌に、無防備に口を開く。……宏ちゃんなら、何されてもいい。そう伝えたかった。


「ん……」


 ぴったり合わさった唇から、甘い吐息が漏れる。優しくて、甘いキス。うっとりと目を閉じていると……背中が、ベッドについていた。


「あ……宏ちゃん……」

「成……お前が欲しい」

「……!」


 真っ直ぐな言葉に、頬が赤らんだ。嬉しい自分が、何より恥ずかしい。


――でも……ぼくも本当の気持ちやから。

 

 宏ちゃんのこと、すごく求めてるんやもん。きっと、宏ちゃんの伴侶としても……オメガとしても。

 答えの代わりに、広い背に抱きついた。


「成っ」


 嬉しそうに抱き返されて、心が満たされる。


「大好き、宏ちゃん」

「俺も。すごく好きだ」


 間近にある綺麗な目に、ほほ笑み返して、キスを待った。そこからの、めくるめく時間を思って……



――コンコンコン!


 やから、突然ノックの音がして、心臓がひっくり返った。

 さらに、間髪入れずにドアが開き――


「成己、宏章さん。ちょっといいですか!……どしたん、顔赤いけど」

「な、ななんでもないよっ?!」


 きょとんとしてる綾人に、ぶんぶん手を振った。


――あ、危なかったぁ~……!


 宏ちゃんが咄嗟に抱き起こしてくれたから、なんとか隣り合って座っていた体で、綾人を迎えられた。


「どうした、綾人君。こんな時間に」


 落ち着き払ってたずねながら、宏ちゃんは、ドアから明後日を向いたまま。……妻として色々察してしまい、耳まで火照ってしまう。

 幸い、綾人は気づかへんかったよう。


「実は、二人にお願いがあって……」


 決然とした顔で、歩み入ると……ガバリと頭を下げた。


「宏章さん、成己……さん! オレをここで働かせて下さいッ!」


 綺麗なお辞儀と共に、差し出されたのは履歴書で。ぼくと宏ちゃんは、思わず目を丸くした。


 

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