第197話

 綾人と、ぼくと、宏ちゃんと。

 三人の生活は、和やかに始まった。

 

「おはよー、成己!」

 

 台所で朝ご飯の支度をしてると、綾人がひょいと顔を出す。

 

「おはよう、綾人。すごい汗やねぇ。結構走ったん?」

「おう!」

 

 綾人は頷いて、汗に濡れた顔に笑みを浮かべた。朝に走るのが日課らしくてね。今朝は、宏ちゃんと二人、早朝ジョギングに出てたんよ。

 お水を渡すと、ごくごくと喉を鳴らした。気持ちの良い飲みっぷりに、目尻が下がる。

 

「綾人と宏ちゃんも。朝から走るなんて、すごいなぁ」

「気持ちいいぞ! 成己も行こうよー」

「あはは、お気持ちだけで……」

 

 談笑していると、宏ちゃんが台所にやってきた。もう着替えてきたのか、首からタオルが下がってる。

 優しい目がこっちを見たのに、ほほ笑み返した。

 

「綾人君。朝飯までに、風呂行ってきな」

「いやいや、宏章さんが先に……」

「綾人、行っておいで? 風邪ひいちゃう」

 

 メッと指を立てると、綾人は少しはにかんだみたいに顔をほころばせた。「すぐ出てくる!」って、慌ただしくお風呂に向かう。

 

「成。朝飯、ありがとうな」

 

 近寄ってきた宏ちゃんを見上げ、にっこりする。

 

「ううん! はい、宏ちゃんもどうぞ」

 

 お水を差し出すと、宏ちゃんは「サンキュ」って笑う。朝の陽射しにきらめいて、笑顔が眩しい。

 ぼくは、弾むような気持ちのまま、宏ちゃんの腕に触れる。

 

「ねえ、宏ちゃん。綾人、楽しかったみたいやね」

「ああ、ビュンビュン走ってたよ。運動すると気が晴れるってさ」

「ふふ、アスリートやなあ」

 

 綾人にとって、やっぱりスポーツは特別なんやろね。

 それに、宏ちゃんのアドバイス通り……穏やかに見守ると決めたのが良かったのかも。ぼくがオロオロしないと、綾人も「ごめんな」って言う事が減って、腰を落ち着けてくれた感じがする。

 

 ――よかった、綾人……

 

 ほっとしていると、宏ちゃんの優しい目が細まった。

 

「和食か? いい匂いだなぁ」

「えへ。今日は、宏ちゃんの好きな銀鱈もあるよ。ほら、編集の吉田さんから、暑中見舞いで頂いたの」

「おお、やった!」

 

 大らかな笑みを浮かべた宏ちゃんに、ぱっと抱き寄せられた。

 運動していたせいか、熱っぽい体から、ふわりといい匂いがする。――どきりとして、頬が熱くなった。

 

「ひ、宏ちゃんっ」

「成、好きだよ」

 

 大きな手に頬を包まれたと思うと、攫うようにキスされた。優しく啄まれて、唇がとろけそうになる。

 

「ん……っ」

「成……」

 

 宏ちゃんは、熱い声で囁き……ぎゅっとぼくを強く抱きしめた。

 切ない息が漏れて、ますます体が熱を帯びる。――綾人がいるんだからだめ……そう言いたいのに、拒めない。

 

 ――ぱたん。

 

 しばらく、夢中になっていたぼく達やったけど、お風呂場の戸が開く音に、はっとした。

 

「ただいまー!」

「お帰り、綾人。早かったね」

「オレ、速風呂なんだ」

 

 あ、綾人の笑顔が見られません……。

 とっさに、慌てて体を離して、フライパンを覗き込むふり、出来て良かった。……ちょうど、いい焼け具合になった銀鱈を箸で拾い上げて、お皿に乗せる。

 

「成、メシよそってくな」

「あ……ありがとう。宏ちゃん」

 

 平然としてる宏ちゃんは、やっぱり大人なのかも……。ぼくは、不思議そうな綾人に誤魔化して、せっせと朝ご飯の仕上げにとりかかる。綾人も率先して、お手伝いしてくれた。

 

「成己、納豆にキムチ入れていい?」

「ありがとう……キムチ?! 辛くない?」

「美味いよ!」

「もう。ちょっと待っててねっ」

 

 明るい笑顔を見ると、嬉しくなってしまう。

 ぱたぱたと階下に下りて、お店の冷蔵庫を開くと、キムチの入ったタッパーを取り出した。昨日の冷麺で、結構使っちゃったから、残りは半分くらいになってる。

 

 ――綾人、キムチ好きなんやなあ。また買い出し行くときは、大目に買ってきて……


 欲しい分だけお皿に移していると、ついて来た綾人が、のんびりと声を上げる。

 

「なあ、成己~」

「なあに~?」

「前から思ってたんだけど、ここってお店なんだよな?」

「そうやで。宏ちゃんがね、喫茶店してるんよ」

「かっけー! あれ? でも、お店開いてんの、見たときねえけど……」

 

 もっともな疑問に、あははと笑いが零れる。

 確かに、すごいフレキシブルな営業スタイルやから、驚くよね。

 

「今は休業中なんよ。宏ちゃんの本業が落ち着いたら、また開けるって言うてた!」

「……そっか!」

 

 綾人は、ぱっと表情を明るくする。うまく聞き取れなかったけど、何事か口の中で呟いているみたい。

 ぼくは不思議に思いつつ、タッパーをしめて、冷蔵庫に戻す。

 

「お待たせっ。ごはん食べよっか」

「おう!」

 

 階段を上る綾人の足取りは、とても軽かった。



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