第196話【SIDE:陽平母】

『ごめん、ちょっと具合悪くてさ……』


 その言葉の通り、電話口の晶ちゃんの声は、ひどく掠れているみたいだった。


「あら……」


 試験も終わった頃と見越して、パーティでもしようって、電話をかけたのだけれど。

 私は心配になって、声を潜める。


「大丈夫? お医者様には見てもらった?」

『ん……そこまでじゃないから平気』


 そう言いながら、晶ちゃんの声は力ない。


――きっと、無理をしてるのね。この子は昔から、頑張り屋さんだもの。


 胸いっぱいに母性が溢れてくる。自分が何かを守るべき立場であるという、誇りに似た幸福……

 私はほほ笑んで、晶ちゃんに言う。


「晶ちゃんのこと、心配だわ。そうだ、あまり辛いなら、家に来るのはどう?」

『……いや、それは……』

「だって、椹木さんはお仕事でいらっしゃらないんでしょう。使用人だけじゃ、いろいろ心細くない?」


 私は畳みかけるように、言葉を紡ぐ。遠慮がちなこの子は、これくらい押してあげなくちゃね。

 晶ちゃんは、黙っていて、苦しげな息だけが聴こえていた。


「ねっ、遠慮しないで。私、薬膳粥つくってあげる。それに、家なら陽平も……」

『……ごめん、ママ』


 ふいに、硬質な声に言葉を遮られた。驚いて、黙ってしまうと……晶ちゃんは淡々と言う。


「し、晶ちゃん……?」

『眠いから、切るね。ごめん』

「え、ええ……ごめんなさいね。でも、本当に頼って――」


 言い終わる前に、会話の相手がツーツー……と無機質な音に変わった事に気づく。

 私は、少し呆然としてスマホを下ろした。


「切られた……?」


 それに……気のせいかしら。

 なんだか、さっきの晶ちゃん、冷たかったような気がするのだけど。


「まさか…………そんなはずないわ」

 

 指で髪をきつく引いていると、ある光景が蘇ってくる。


――『椹木さん……』


 パーティでの晶ちゃんのこと。

 あのとき、椹木の腕に抱かれ、甘えるように胸に頬を寄せていたわ。

 そう、まるで……彼が愛おしいアルファであるように。


「……そんなはずないわ! だって、晶ちゃんは陽平と!」


 ぎち、と髪に束縛された指が、真っ白になる。

 だって、そうでしょ? 晶ちゃんは陽平ちゃんと寝たんだもの。


――そうよ。椹木を愛しているなら、何度も陽平に会いに来ないわ。まして、抱き合うことがわかっているのに……


 あの貞淑な晶ちゃんに限って、ありえない……! 

 私は、ほっと息を吐く。


「馬鹿なこと考えたわ。晶ちゃんが、陽平ちゃんを愛していない筈がないわよね」


 最近、面白くないことが多いから、ナーバスになっているのね。


――ピコン。


 そのとき、スマホのスケジュールが、『ホームパーティ』の予定を告げた。私はかっとなって、その通知を削除する。


「ウザ……ないわよ、そんな予定!」


 きりきりと、唇を噛みしめる。

 今日は、本当は……ホームパーティを開催するはずだった。なのに、皆が――


『ごめんなさい、弓依さん。その日は都合が合わなくて……』

『別の日なら、大丈夫なのだけど……』


 ことごとく、予定が合わないと言って、断ってきたの。そりゃ、たまにはそんな事もあると思うわよ。

 けれど、私わかってるの。


「野江叶夫の参加する絵画鑑賞会に、行くつもりなんでしょう!?」


 野江のSNSをチェックして、日時が被っていることを知ったときの、私の気持ちと言ったら……! 勘違いじゃないわよ。だって、みんな「いいね」してたもの。


「もう、最低! せっかく、仲直りのつもりで……パーティしてあげようと、思ったのに!」


 むらむらと怒りがこみ上げて、テーブルにスマホを叩きつける。

 パキッ! ――乾いた音をたて、お気に入りのカバーに罅が入った。踏んだり蹴ったりで、涙が滲む。


「なによ、もう! 皆、大っきらい!」


 陽平ちゃんも、連絡しても出ないし。誰のために、これだけ私が気を揉んでると、思ってるのか。

 息子って言うのは、どれだけ手をかけても薄情なものなの?


――なんで、私がこんなに頑張ってるのに、みんな冷たくするのよ!


 涙が頬に伝うとかぶれるから、ハンカチで押さえた。――もうずっと、思い切り泣いてもいないわ。

 こんな時でも、私は私をやめられないんだって、空しく思う。




「奥さま……」


 おずおずと、使用人が声をかけてきた。無駄にオドオドした態度がしゃくに障って、きっと睨みつける。


「何?! 忙しいの」

「も、申し訳ありません。あの、旦那さまからお電話です」

「……早く貸して!」


 使用人が掲げるように持っていた子機を、ひったくるように受け取った。

 見えないとわかっていても、髪を直す。


「もしもしっ、あなた?」

『弓依、突然すまない。スマホに掛けても出ないから、こっちに掛けたが……忙しかったかい?』


 今朝も聞いた、あの人の……低く深い声。じんわりと心が慰められて、私は自然とほほ笑んでいた。


「ううん! 声を聞けて嬉しいわ、あなた。でも、珍しいわね、こんな時間に」


 お昼にかけてくるなんて、珍しい。すると夫は、微笑しているのがわかる声音で言った。


『ああ……やっと、こっちでの仕事が落ち着いたんだ。なんとか、うまく行ったよ』

「そうなの?! お疲れ様、よかったわねぇ」


 嬉しそうな夫に、私まで嬉しくなる。この人の成功こそ、喜びだ――そう思える自分が嬉しいの。

 けれど、次に続いた夫の言葉に、私は瞠目した。


『それでね。また、すぐ出張にはなるが……ようやく、家に帰れそうだ』

「えっ」

『やっと、君たちに会える。そうだ……陽平と成己さんは、仲良くやっているかな? また四人で、食事でもしたいものだね』


 嬉しそうな夫の声が、遠くに聞こえる。


――どうしよう。まだ、計画がうまく進んでいないのに……


 まだお帰りは先だと思っていたわ。陽平に晶ちゃんを娶せることも出来ないまま、あの人を迎えるなんて出来ない。

 カタカタと、子機を持つ手が震える。


『……弓依? どうしたんだい』

「いいえ! とても嬉しいわ、あなた」


 不思議そうな彼に、慌てて明るい声を返す。彼は少し怪訝そうにしたものの、突っ込みはしなかった。


「じゃあ、お出迎えの準備頑張らなきゃね」

『はは。嬉しいが、普通が一番だよ。ああ、そろそろ……』

「はい。愛してるわ」

『私もだ』


 穏やかな応えとともに、通話が切れる。

 私は、立ち上がった。


「出かけるわ! すぐに運転手を」

「えっ、奥様……」

「ぐずぐずしないでよ! あんたクビにされたいの!」


 叱責すると、泣きそうな顔で使用人は飛んでいった。あんなグズ、誰が雇ったのよ!


「何とかしなくちゃ……」


 部屋に飛び込んで、外出用のワンピースに着替える。――その時、クローゼットの奥の包みが目に入る。夫が成己さんにと、私づてに贈ってくれと言ったものだった。


『喜んでくれるといいが』


 夫は、あの子の手に渡ったと信じ切っているだろう……そう思うと、胸が痛い。


――でも……これは、晶ちゃんのもの。私がそう決めたのよ!


 髪を巻き、クリップで軽く束ねる。簡素だが、看病に行くのだから、これくらいがいいはずだ。

 私は外に飛び出すと、車に乗り込んだ。


「椹木邸に行くわ。あと、モールに寄っていくからね!」


 鋭く行き先を告げると、車が発進する。

 何としても、あの人が帰って来るまでに、晶ちゃんをうちに招き入れなくてはならない――



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