第190話

 実際、夢のような生活やと思う。

 おはようからお休みまで、宏ちゃんと一緒にいられる。

 宏ちゃんの家のことをして、お仕事のお手伝いをして。

 余暇にはふたりで映画を見たり、美味しいものを食べに行ったり。宏ちゃんがお仕事で外出するときは、のんびり読書をしたりもする。


「成、おいで」


 宏ちゃんは、どれだけ忙しくても、ぼくのことを毎日愛してくれた。「これが俺の活力だから」って、優しく笑って。


……夢みたいやった。


 たった一月前……ううん、今まで考えもしなかった生活やから。

 夜中に目が覚めたときとか、センターのお部屋に寝ているような錯覚をしたりする。隣で眠っている宏ちゃんを見て、「現実」やって、安心するん。


「宏ちゃん……」


 間接照明に照らされた、綺麗な顔を見つめていると、ふいに泣きたくなった。


――幸せで怖いなんて。ぼく、弱虫やね……


 広い胸に顔を寄せると、眠ったまま、抱き寄せてくれる。

 幸せで胸が痛かった。





 宏ちゃんとのひと月が終わり、八月が始まる。

 その日、ぼくと宏ちゃんは、食料品の買い出しに出かけていた。


「宏ちゃん、車出してくれてありがとう」

「何言ってんだ、当たり前だろ。俺こそ、いつもありがとうな」


 宏ちゃんはハンドルを操りながら、大らかに言う。

 後部座席に、一週間分の食材と、日用品が積まれてた。

 ぼくは今、抑制剤を止めているので、外出には宏ちゃんが付いてきてくれるん。宏ちゃんは「俺が行くよ」と言ってくれるけど、全部お任せするのは、心苦しくて。


――とはいえ、ぼくが行くのでも、お仕事の手を止めてしまうのに、違いはないよね……

 

 むん、と唸る。

 お買い物じたいは、好きなんやけど。配達サービスの利用とか、考えたほうがいいのかな……?

 そういえば、綾人のご実家は配達サービスを使ってたって聞いた。

 今度教えてもらおうかな、と考えていたその日の午後――

 綾人が、うさぎやに訪ねてきてくれたんよ。

 悲しいことに……のんびりお話するような状況やなかってんけど。



「オレはもう限界だ!」


 顔を合わせるなり、わっと叫んだ綾人に飛びつかれ、ぼくは目を白黒した。

 ともかく、ぽんぽんと背中を叩く。


「ど、どうしたん? なにがあったん、綾人」

「聞いてくれよ、朝匡のやつが!」


 がばっと顔を上げた綾人は、かっかしてる。猫のように勝ち気な瞳には、涙が滲んでいた。


――こ、これはただ事やなさそう……


 ごくり、と唾を飲んだとき、背後から「まあまあ」と声がした。


「綾人君。コーヒーを入れるから落ち着いて。座って、ゆっくり話そう」


 成り行きを見守っていた宏ちゃんが、苦笑して椅子を勧めた。



「……何があったん? 綾人」


 お店のテーブルに向かい合って、さっそくぼくは尋ねた。


「うう……オレ、もう朝匡とやってけねえよ」

「へ?!」


 綾人は、悲壮な顔で叫ぶ。ぼくはぎょっとして、身を乗り出した。


「ど、どういうこと?! どうして?」

「どうもこうも! あいつ、勝手すぎんだ。オレのバイト、勝手に辞めさせやがったんだぞっ」

「えぇっ」


 綾人は、悔しそうに拳を握ってる。――バイトしてたん、初耳や……と言うのは置いといて。


「お、お兄さんが勝手に、綾人をクビにしたってこと?」

「そう! どこから知ったのか、オレのバイト先に勝手に電話してさ。もう二度と行くなって」

「ひええ」


 な、なんて強引な。

 絶句していると、綾人はさらに続けた。


「せっかく、店長さんのご厚意だったのに。あんな一方的に、失礼だろ。せめて代わりが見つかるまでって言ったら、オレのこと「浮気者」だって言うんだぞ。――何だそりゃ?!」

「うわ……兄貴……」


 宏ちゃんが呆れ声で、ぼそりと呟く。ぼくは、綾人の手を握った。


「……辛かったね。大丈夫?」

「成己ぃ……」


 大好きなお兄さんに、そんな風に言われて。すごく悲しかったに違いない。

 背中を擦ると、綾人の瞳に涙が盛り上がる。


「……オレ、あいつのとこに帰りたくねえ。……しばらく、泊めてくんねえかな」

「綾人」

「頼む! 新婚の二人には悪いと思う。でも、オレの実家はあいつのテリトリーだし……恩は返すから!」


 ぺこぺこと頭を下げられ、慌ててしまう。

 ぼくとしては、綾人のお願いを聞いてあげたい。宏ちゃんを見つめると、そっと肩を抱かれた。


「宏ちゃん」

「客間に風を入れてくるよ。成、綾人くんの話を聞いてあげてくれるか」

「あ……!」


 頼もしい笑みを浮かべる宏ちゃんに、ぱっと心が明るくなる。


「宏章さん、成己。ありがとう……!」


 綾人がやっと、明るい顔で笑った。



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