第189話
――小さいころ、夕方になるのが待ち遠しかった。
学校が引けた宏ちゃんが、センターに遊びに来てくれるから。
「あ……ひろにいちゃん!」
居住区を抜けて、受付に出て行くと、宏ちゃんがゲートを入ってくるところやった。幼いぼくがトコトコと駆けよれば、向こうから走って来た宏ちゃんに、ぎゅっと抱きしめられる。
「成、お待たせ!」
「ひろにいちゃん。会いたかったぁ」
抱っこされて、くすくすと笑いが零れる。――宏ちゃんは昔から大きくて、小学六年生には百七十センチを超えていて。たった五つ下のぼくのことを、大人みたいに抱き上げてくれた。
「ごめんな、帰りの会が長引いてさ」
「ううんっ。来てくれてありがとう」
宏ちゃんは急いで来てくれたのか、汗だくで。嬉しくて、胸がきゅうって痛くなったん。
少年らしい華奢な肩に、頭をぐりぐり寄せると、宏ちゃんは「危ないぞ」って笑った。
「な、成ちゃん、一人で走っていったら、あかんやないのっ」
「あっ。おねえちゃん……!」
追っかけてきた涼子先生が、ゼイゼイと荒い息を吐く。ぼくは、「一人で居住区を出ちゃいけない」って言う、きまりを破ってしまったことに気づいた。
気迫をこめて睨まれ、慌てて宏ちゃんの腕から下ろしてもらう。
「ご、ごめんなさい。たのしみで……」
「もう、ほんまに気をつけるんやで! 何べんも言うてるけど、成ちゃんの、安全の為なんやから。あと、お姉ちゃんやなくて、「先生」って呼びなさいね」
「はい、涼子先生っ。気をつけますっ」
こくりと頷くと、先生は「よろしい」と首を縦に振った。それから、宏ちゃんに向き直って、にっこりする。
「宏章くん、いらっしゃい。いつも通り、アクテビティルームで、遊ぶのでいいかな?」
「こんばんは、立花先生。そのつもりです。今日も終わりまでいるので、よろしくお願いします」
礼儀正しく、にこやかに話す宏ちゃんに、涼子先生は満足そう。先生は、センターに遊びに来る子供たちにも毅然として、生活態度を注意していたけど、宏ちゃんが怒られるのは、あまり見たことがない。
「いつも、ありがとうねえ。あとで、お菓子とジュース、持っていくからねっ」
「ありがとうございます!」
二人で揃って頷くと、涼子先生は、走り去って行った。ほかの「居住区」でのお仕事に、戻らなあかんのやって。
一緒に遊びたかったな、って少し残念に思う。でも、この頃の涼子先生は、そろそろ「中堅」というもので、ぼくだけの「おねえちゃん」じゃなくなってたん。
颯爽と揺れるポニーテールを見送っていると……宏ちゃんに手を握られる。
「……成、さみしいか?」
「ひろにいちゃん」
はっとして、宏ちゃんを見上げると、優しい眼差しが向けられている。
「ううん。どうして?」
「そうだなあ、なんとなく……」
宏ちゃんは、ちょっと言葉を濁した。ぼくは、にっこり笑う。
「……さみしくないよ。あのね、お仕事がふえるのは、ええことなんやって。ぼく、うれしいよ!」
大きな手を握って、言う。――ウソじゃなかった。大好きな先生が、褒められるのは嬉しい。それに、先生は言ってくれたから。
「前と一緒に側に居られなくても、成ちゃんをいつも想ってるよ」って。
「そっか」
宏ちゃんは笑った。しゃがみこんで、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「ひろにいちゃん?」
「お前は偉いな。俺の方が、寂しいって思ってたかも」
「さみしい? ひろにいちゃんが?」
思わず、目を丸くすると、宏ちゃんはちょっと眉を下げた。
「ああ。立花先生とは、ここに来てからよく遊んでもらったし。……俺、甘ったれかな?」
「ううん! そんなことないよっ」
恥ずかしそうに言う宏ちゃんに、ぼくは慌てて首を振った。宏ちゃんが寂しく思ってるなら、励ましたい――そんな気持ちで、ぎゅっと抱きしめる。
「ほんまは、ぼくもね……すごくさびしいの。仕方ないことやけど、ときどき、泣きそうになるねん。でも、先生にはないしょやで」
ひそひそと本心を打ち明けると……宏ちゃんは綺麗な目を細めて、「ありがとな」って抱きしめてくれてん。穏やかな森の香りに包まれて、ぼくはほっと息を吐いた。
艶やかな黒髪を、せっせと撫でる。
「ひろにいちゃん、さみしくてもいいよ。ぼくもおんなじやから……」
「……優しいな、成は。じゃあ、甘えてもいいか?」
「えへ。いいよっ」
――今にして思うと、宏ちゃんはぼくに気持ちを打ち明けて欲しくて、あんな風に言ったんやと思う。でも、その時はそんな風に思わへんから、自分が「ひろにいちゃん」の助けになれるんやって、ただ誇らしかった。
それに、宏ちゃんも自分と同じなんやって。
ぼくと一緒に、変わらないで居てくれるんやって……嬉しかったん。
「よし。そろそろ遊ぶか!」
「うんっ。ひろにいちゃん、おはなしきかせて!」
宏ちゃんだけは、ずっと側に居て欲しかったから。
***
「ん……」
身じろぐと、布団が衣擦れの音を立てた。
からだに、甘いまどろみが残っていて、重い。「んん」と唸って、なんとか目を開けると……つやつやした黒髪の、後頭部が目に入った。
「ひろにいちゃん」
口をついて出たのは、昔の呼び名で。――さっきまで見ていた夢に、影響を受けすぎていて、焦ってしまう。
「成。起きたのか」
幸い、振り返った宏ちゃんは、いつも通りで。優しい笑みを浮かべて、ぼくの顔を覗き込んだ。
「ごめんね、たくさん寝ちゃった」
「まだ昼前だよ。それに、つい無理させちまったからさ」
親指で、そっと目の下を撫でられて、唇がほころんだ。
宏ちゃんは、ベッドのそばに座り込んで、書き物をしていたらしく、床にノートや資料が散らばってた。家事を終えた後、ぼくの側でわざわざ仕事をしてくれていたなんて。
きゅう、と胸が痛くなって、布団を握りしめた。
「宏ちゃん、ありがとうね」
「ふふ。何がだー?」
宏ちゃんは笑って、ぼくに顔を寄せた。目を閉じると、すぐに唇が重なった。
優しいキスを受けながら、ぼくは思う。
――変わらないでいたいって思ってた宏ちゃんと……夫婦になるなんて。昔のぼくが知ったら、驚くだろうなあ。
くすくす笑ってしまって……宏ちゃんに「どうした?」って尋ねられるのは、このあとすぐのこと。
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