第176話

 キス、される。 

 なんで、陽平がそんなことをしようと思ったか、わからない。呆然としながら、ぼくの心にあったのは、宏兄の笑顔だけやった。「成、好きだよ」って、なんども慈しまれたときのこと……

 

 ――いやや!

 

 強く思ったとき、ぐいと後ろに引き寄せられた。

 

「……!」

 

 唇を、あたたかなものに覆われていた。そう気づいた途端、涙が溢れる。――怖かったからとちゃうの。

 背中をつつむ温もりと、優しい森の香りに気がついたから。

 

「何をしてるんだ、城山くん」

「……お前!」

 

 低い、静かな声で問う宏兄に……陽平が息を飲んだ気配。

 宏兄の手のひらの中で、ぼくは震える息を吐いた。

 

「ひろにい……」

「ごめんな、成。遅くなっちまった」

 

 宏兄はそう言って、ぼくを抱きしめてくれる。背中越しに、宏兄の激しい鼓動と、湿り気を帯びた熱を感じた。こんなになって――どれだけ、探し回ってくれたんやろう?

 きゅう、と胸が甘く痛んだ。

 

「ううっ……」

「成。大丈夫だよ」

 

 唇を覆う大きな手に、ぼくの涙が伝う。


――宏兄……来てくれた……!


 胸の前に回った腕にしがみつくと、宏兄は抱き返してくれた。

 胸の奥から、ほわほわと安心感が溢れて……子どもみたいに涙が止まらない。

 

「……ちっ」

 

 陽平が、忌々しそうに舌打ちする。そのまま、去って行こうとするのに――宏兄が「待て」と制止した。

 

「城山くん。俺は言ったよな? 成を苦しめるのは止めてくれと」

「……うるせぇな。"僭越な真似は止せ"とも言ったはずだぜ。俺がどうしようが、あんたに止める権利はない」


 冷たい声で、陽平は吐き捨てた。


「成は、俺の妻だ。二度と君に触れさせない」


 宏兄の声には、静かな怒りがあった。

 ぼくの夫として、怒ってくれているんや。真剣な横顔を、感激の思いで見つめていると……


「……あっ」


 突然――肌がぴり、と痛んだ。静電気を浴びたような感覚に、驚く。


――陽平……?


 陽平は火のような眼で、ぼくを睨みつけている。――紅茶色の瞳の、瞳孔が縦に切れていた。

 聞いたことがある。アルファが激怒するとそうなるって。

 こんなに怒った陽平は、初めてや。


「――痛っ……!」


 肌が切れそうなほど、空気が痛い。宏兄が抱きしめてくれていなければ、気絶していたかもしれない。

 宏兄は、厳しい声で言った。


「まったく……成がいるのにやめないか」


 ふわり。――宏兄から溢れ出した森の香りが、ぼくを包みこむ。

 喉を焼くほどの薔薇の香りが遠のいていき……ほう、と息をついた。


「大丈夫か? かわいそうにな……」

「う、うん……」


 よしよし、と頭を撫でられる。


「城山くん、俺は乗らないよ。それより大切なものがあるからな」

「宏兄……?」

「行こう、成」


 さっぱりと言い切ると、宏兄はぼくの肩を抱き、踵を返した。ぼくは、おろおろしながらも、宏兄についていく。


「……」


――陽平、めちゃくちゃ怒ってた。どうして……


 背後が気になって、肩越しに、一度だけ陽平を振り返る。

 すると偶然か、目が合ってしまう。唇が、獰猛にしなった――次の瞬間、



「とことん、お目出度いやつだな、あんた。そいつが自分のものだと思ってんのか」


 火を吐くように、陽平が怒鳴った。宏兄は足を止めない。

 陽平は、怒鳴り続ける。


「そいつはなぁ、俺に泣いて縋ったんだよ!「何でもするから捨てないで」って、裸になってな……!」


 陽平の言葉は、鋼鉄のように鋭く胸を貫いた。


「……ぁ……」


 ――宏兄が、ぴたりと足を止めた。


「は……ざまあねえ。お前がそいつの何を知ってる? 俺は知ってるぜ……お前が知らないトコロもな」


 勝ち誇ったように、陽平が笑っている。

 ぼくは……足の爪先から、揺さぶられるような震えが起るのを感じた。

 

――『お願いだから、側にいて……!』


 惨めな自分の声が、甦ってくる。

 うっと喉がひしゃげた。冷たい涙が、頬を伝う。

 ……どうしよう。


――知られちゃった。宏兄に。


 惨めで、みっともない。ふしだらな真似をしたぼくを……。

 知られたくなかったのに。


「うっ……」


 燃えるような羞恥に引き裂かれ、涙が止まらない。全身の血が、目から流れ出してくみたいやった。


「そいつは、そういう奴なんだ。覚えとけ、あんたにすることは、俺との"繰り返し"なんだってな!!」


 呪詛のような言葉が、響く。陽平の声は刃物みたいに、ぼくをずたずたにする。


――消えたい。


 呆然と泣きながら、ぼくは背を丸めた。

 すると……ふわり、と体が軽くなる。


「……!?」


 宏兄に抱き上げられていた。灰色がかった瞳が、間近にある。


「……んっ」


 唇が触れあった。しょっぱい涙を吸うように……宏兄は、ぼくにキスをする。

 優しく包まれるうちに――陽平の声さえ、遠くなってく。


「ひろにい……?」

「成。好きだよ」


 目を見開いていると、宏兄は優しくほほ笑んだ。ぎゅ、と宝物のように抱きしめられる。


「俺の奥さん。本当に大好きだ……」

「……っ」


 甘い囁きに、心が溶けてく。

 大きな胸の温もりに、じわりと涙が溢れる。――今度は、あったかい。ぼくは、宏兄に飛びついた。


「わあ……!」

「成。よしよし……」


 わあわあ泣くぼくを、宏兄は抱きとめてくれる。森の香りのする胸に顔を埋め、泣いていると――宏兄が言った。


「……残念だよ、城山くん」

「てめえ……」


 静かで、低い……今まで聞いたことがないくらい、怒った声。


「君は――成が、どれだけの勇気と愛情を、君に捧げようとしたか。わかりもせず、俺を殴る材料にしたんだな」

「……!」


 陽平が、息を飲む。宏兄は、ふと息を吐いた。――笑ったように。


「俺は殴らない。ガキを殴る趣味はないんでね」


 それだけ言い、ぼくを抱きしめると、歩き出す。

 二度と足を止めなかった。


 


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