第175話

「久しぶりだな、成己」

 

 甘く、掠れた声が鼓膜を揺らす。久しぶりに名を呼ばれ、心臓が冷たい手に握られたように、痛んだ。

 

「……っ陽平」 

 

 あの日以来、初めて顔を会わせる陽平に、ぼくは動揺していた。

 やわらかに波うつ栗色の髪も、紅茶色の目も。不機嫌そうに寄った眉も、なにも変わらない。

 でも……向き合うぼくの心持だけが、圧倒的に違う。

 

 ――会いたくなかった……!

 

 顔を合わせると――泣いて縋った日の、苦しい気持ちが蘇ってくる。じくじくと、泣き出す寸前のように胸が震えだして。

 思わず、一歩後じさると――陽平は目を丸くし、唇を歪めた。

 

「何、ビビってんの?」

「ちが……」

「元婚約者にその態度かよ。ずい分、お高くとまってんだな、野江さん?」

「――!」

 

 皮肉気に呼ばれて、ぼくは息を飲む。

 

「いいご身分だな、成己。ぎゃあぎゃあ喚いて、センターに行きたくないって泣きついて来たお前が……今は、野江家の若奥様なんて。大した貞節ぶりじゃねぇか」

 

 陽平の声には、優しさのかけらも無かった。そのことに、ますます心が強張っていく。

 

「そんな言い方っ……それに、ぼくはセンターに帰るのが嫌やったんとちゃう!」

 

 陽平が好きやから、側に居たかったのに。

 あの時の、ぼくの気もちさえ通じていなかったなんて、悲しい。

 両手を握りしめ、睨みつけると――陽平は、鼻で笑った。

 

「よく言うぜ、浮気しておいて。大事な「宏兄」と結婚出来て浮かれてんのか知らねえが……ちゃらちゃら着飾って、みっともねえんだよ」

「なに、それ。ぼく、浮気なんかしてないっ……! 浮気したのは陽平やろ!」

 

 叫んだ途端――気色ばんだ陽平に、手首をねじり上げられた。

 

「痛いっ」

 

 痛みに顔を歪めると、陽平が顔を近づけてくる。――肌がピリピリするほどの、薔薇の匂いが香った。

 

「俺は、晶を守りたいだけだ! お前と野江とは違う!」

 

 陽平の目には凄まじい怒りが燃えていた。あの日、陽平と決裂した瞬間と同じ――ううん、それ以上に。

 

 ――どうして、そこまで怒るの?

 

 陽平が、蓑崎さんのためにぼくを捨てたのに。なんで、ぼくが責められてるん?

 鼻の奥がツンとして、瞼が熱くなる。

 唇を噛み締め、涙を耐えていると――陽平は、ふんと嘲笑った。

 

「だいたい……浮気をしてない割には、ずい分早く結婚できたじゃねえか。――欠陥品のくせに。大方、俺のときみてえに、裸になって縋ったか?」

「!」

 

 ナイフのように冷たい眼差しが、ぼくの体を這うのを感じた。着物を切り裂かれ、その内側を暴くような目に、全身が冷たくなっていく。

 

「やめて……!」

「ああ――それとも。今だから、やっとってことか。お前みたいな欠陥品が、婚約破棄されたんだ。商品価値なんてタダ同然だから、あいつでも買えたって?」

「……っ!」

 

 あんまりな言い草に、ついに涙が零れてしまう。

 

「うう……」

 

 胸が痛い。切り裂かれたみたい……

 惨めに泣いていると、陽平は笑った。酷薄に――ぼくのことを嬲るのが、楽しくて仕方ないみたいに。

 

 ――なんで、そんなに……?

 

 どうして……ここまで、言われないといけないんだろう。

 あんな風に別れて――祝福してもらえるとは、思わないけど。こんなに、責められる理由だって、ないはずなのに。

 あの日――ぼくが、どんな思いで、陽平の家を出たか……!

 

「……ひどいよ……!」

 

 もう、堪えられなかった。




 ぱしん!

 ぼくは、自由な手を振り上げて――陽平の頬を引っ叩いていた。

 

「!」

 

 陽平は一瞬、目を丸くし……すぐに怒りに頬を染め、ぼくの髪を掴んでくる。

 

「てめえ、何を……!」

「うるさいっ。陽平のばかー!」

 

 でも、もうどうでもよかった。ぼくは怒鳴り返し、陽平を睨みつけてやる。

 

「さっきから、やいやい、うるさいんよ……! なんで、ひどいことばっかり言うん……?! 陽平が、ぼくを捨てたんやろ。ぼくの結婚、お前に文句言われる筋合いないっ!」

「な……?」

 

 あっけに取られている顔に、もう一発お見舞いしてやろうと、手を振り上げた。――今度は、かるがる受け止められてしまう。やから、足を振り上げて、脛を思い切り蹴っ飛ばしてやった。

 陽平は「うっ」と呻いて、ぼくを睨む。

 

「ガキか、お前! それでも、二十歳かよ?!」

「知ったかすんなっ。ぼくの誕生日とか、スルーしたくせに……! あの日、ぼくがどんな気持ちで……! 宏兄が、どれだけ苦労して、ぼくを守ってくれたか……!」

 

 ひっ、と喉が引き攣った。

 死にそうに怒ってるのに、涙の塊がせり上げてきて――言いたい言葉の邪魔をする。

 悔しくて、仕方なかった。

 

「陽平の、ばか……! ぼくは、センターに行ってたほうがいいんや。蓑崎さんは、守るのにっ…………!」

 

 思いきり叫ぶと、陽平が目を見開いた。

 

「うう~っ」

 

 ぼくは、しゃくりあげる。ぼろぼろと零れる涙を拭う事さえ忘れて、泣いた。

 

 ひどいよ、陽平。

 

 結婚したこと、なんでそんなに気に入らへんの。ぼくは誰とも結婚せず、ひとりでセンターへ行けばいいって、思ってたってこと?

 

 ――ぼくは、陽平にそこまで憎まれてたん……?!

 

 お腹が、きりきりと痛む。

 一度は、一緒に生きてくって決めた人に……憎まれるのは、苦しくて。

 

「……」

 

 陽平は、さっきまでの勢いはどこへやら……ただ、黙ってた。


――こんなに言うても、否定もしてくれないんやね。


 惨めやった。空しさに耐えかねて……ぼくは思い切るように、掴まれた手を振り払う。

 

「もういいっ……もう、ぼくのことは放っといて。陽平と、ぼくは関係ないんやから……!」

 

 そう言い捨てて、陽平の隣をすり抜けていく。

 

「――成己!」

「!」

 

 すると、突然――体を抱き寄せられた。強いばらの香りに包まれて、息を飲む。

 

「なにするんっ! 離して……!」

「成己、俺は――」

 

 必死に胸を押すと、後頭部を掴まれて、強引に仰向かされてしまう。紅茶色の目が迫ってくるのが見え、目を瞠った。

 

「……!」

 

 宏兄――そう叫んだ声は、音にならなかった。

 

 

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