第174話

「――成!」

 

 逃げるぼくの背中に、宏兄の声が追いかけてきた。

 

 ――恥ずかしい……消えたい……!

 

 俯いて、必死にその声から遠ざかる。宏兄に……これ以上、見られてたくなくて。

 賑やかなパーティ会場を離れ、ぼくは庭園に駆け込んだ。――眩しい陽射しに、一瞬目が眩む。

 

「……っ」

 

 歓談の最中のためか、誰もいなかった。鮮やかな夏の花々が、押寄せるように咲く小路を、ふらふらと歩む。

 

 ――ああ、どうしよう……

 

 咄嗟に、逃げてきてしまった。

 冷えた頬を、手で押さえる。……宏兄は、どんな風に思ったんやろう。体調の悪い蓑崎さんを、睨みつけるぼくを見て。

 ……恐ろしい奴やって、思ったやろうか。

 

「……うぅ」

 

 じわ、と瞼が熱を持った。

 馬鹿。あほ。……なんで、我慢できなかったん。宏兄と一緒にいて幸せやのに、どうして……

 

 ――あんな醜い嫉妬を見せて……嫌われたら。

 

 ……怖い。

 零れそうになった涙を、目を瞠って堪える。

 胸がズキズキして、息が苦しい。宏兄は――


  

『成、いい子だな』

 

 小さいときから、ずっとそう言って……頭を撫でてくれたん。お膝に乗せて、本を読んでくれて。

 

「……っ、どうしよう」

 

 冷たい顔を、両手で覆う。

 ぼくは、ほんまは良い子とちゃう。 

 欲張りやし、けっこう嘘もつくし。人のことを、ぶん殴ったろかって思うくらい、むかつくこともある。

 今だって……もう関係ない蓑崎さんのこと、めちゃくちゃ憎い。

 

「ぼく、ずるい……」

 

 でも、宏兄には良い子と思ってて欲しかったん。――優しくしてほしかったから。

 花に隠れるように、しゃがみ込んだ。

 お義母さんの貸してくださったお着物を汚さないよう、袖を抱き込む。すべらかな袖の白い花が、日光で清らかに光った。

 ふわり、と木々の芳しい香りが鼻先を掠める。

 

「あ……」

 

 ぼくは、目を見開く。

 

『――綺麗だ、成』

 

 宏兄の笑顔が、浮かんできた。

 お義母さんが貸してくれた、綺麗な着物を纏った、ぼくを見た時……宏兄は、目を見開いていた。

 ぼくは、あの時――何て言ったらいいだろうって、考えてた。お義母さんの大切なお着物を貸して頂けて、嬉しい。でも、宏兄の選んでくれたお洋服、駄目にしちゃって……それは悲しくて。


 ――自分でも、わからへんかったん。どうしていいか……


 でも、宏兄は。

 

『すごく綺麗だよ』

『あ……』

 

「どうしたんだ?」も、「何があった?」も言わなかった。

 ただ、ぎゅって抱きしめて、褒めてくれた。


 

「宏兄……」

 

 ぼくは、わが身を抱きしめた。

 そうすると、あのときの温もりが戻ってくるみたいやった。

 

 ――ぼく……あのとき、宏兄に「大丈夫」って言われたと思ったん。

 

 何も言わなくてもいいよ、って。ぼくの気持ちごと、抱きしめてくれた気がした。

 

「そうや……宏兄は、いつも」

 

 ぼくの気持ちを、受け止めてくれた。――恥ずかしくて、陽平と蓑崎さんのことも、打ち明けられなくても。ぼくが苦しいことだけ、わかってくれた。

 胸の奥が、ほんわりと熱を取り戻す。

 

「……戻らなきゃ……!」

 

 すっくと立ちあがり、駆けだした。

 ぼくは、いい子じゃないし。醜いけれど……それで、宏兄から逃げるのは絶対にちがう。

 

 ――ぜったい、心配かけてる……!


 ごめんね、宏兄。 

 急いで、来た道を戻っていると……ざあ、と強い風が吹いた。瑞々しい花の香が、むせるほどに顔に吹き付けて、思わず目を閉じる。 

 風がやみ、そっと目を開けて……ぼくは、はっと息を飲む。


「――っ!?」 

「成己」

 

 目の前に、立っていたのは――思わぬ人物やった。不機嫌そうに顰められた眉の下、紅茶色の目がぼくを見据えている。


「陽、平……?」


 静かな風にまじって、懐かしい、ばらの香りが匂った。



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