第177話

 さやさやと、庭園に風が吹き抜けていく。夏の陽ざしの匂いと木々の芳しい香りに包まれていた。

 

「ひろにい……」 

「成、大丈夫だよ」

 

 宏兄が笑って、ぼくを腕に抱きしめてくれる。

 

 ――宏兄……!

 

 ぼくは、宏兄の首にぎゅっと抱きつく。 

 ……また、守ってくれた。陽平に身を投げ出そうとしたこと、知られちゃって……もうおしまいやって思ったのに。ぼくの為に、怒ってくれて。それに――

 

『俺の奥さん。大好きだよ……』

 

「……っ!」

 

 全身が、ぱあって熱くなる。胸がどきどき高鳴って、苦しい。ころころと、そこら中を転がりまわりたいような気がする。

 

 ――どうしよう、ぼく……

 

 心の中が甘がゆくて、ぐるぐるして……うまく言葉にならへんけど。これだけは言わなきゃと、宏兄を見上げた。

 

「あのっ、宏兄」

「ん?」

「ありがとう。その、たくさん……!」

 

 宏兄の目を、まっすぐ見つめる。すると、灰色がかった瞳が、やわらかに細まった。――「何でもないぞ」って言うように、大らかな笑顔。宏兄は、いつもそうやって……当たり前みたいに助けてくれる。

 

 ――宏兄。宏兄……

 

 きゅう、と胸が痛くなった。なんだか堪らなくなって、宏兄に抱きつく。

 

「成?」

「……宏兄っ、あのね」

「うん。どうした?」

 

 優しく抱き返されて、瞳が熱く潤む。あんなに泣いたのにって、呆れちゃう。でも、今度のは悲しいんじゃなくて、なんだか……

 

 ――どきどきして……切ない? どうしたんやろう、ぼく……

 

 こんなに近くに居るのに――足りないような、不思議な気持ちが湧きおこってくる。おかしい自分に戸惑いながら……大きな背中に、ぎゅっと指を立てた。

「えい」と気合を入れて、体を離す。

 

「その……えと。ぼく、自分で歩くねっ」

「えっ? 何でまた」

 

 不思議そうな宏兄を見上げ、お願いする。よいしょ、と腕に掴まって、地に足をつけた。

 

「そろそろパーティに戻らなきゃやしっ。人に見られちゃうから」

「戻るのか!? 無理しなくても……色んなことがあって、疲れたろう?」

 

 心配そうな宏兄に、ぼくはにっこり笑って見せた。本当に優しいな。

 

「大丈夫! 宏兄のおかげで、元気です。それに、お義母さんのお誕生日やもん。最後まで、きちんとお祝いしたいんよ」

「……成」

「お願いっ」

 

 途中で帰ったら、せっかくのお誕生日に心配かけちゃう。そんな悲しいのは嫌やし……なにより、優しく迎えてくれたお義母さんを、お祝いしたいから。

 手を合わせて見上げると、宏兄は眉を下げた。「参ったなあ」って、苦笑する。

 

「そんな風に言われたら、頷くしかないじゃないか……」

「あ……ありがとう!」

「それは俺の台詞だよ。……でも、絶対に無理はしちゃだめだ。約束な?」

 

 大きな手で頭を撫でられて、ぼくは笑って頷いた。

 

 

 

 

 

 


「本日は、ありがとうございました!」

 

 最後のお客様を揃ってお見送りすると――お義母さんは、笑顔でぼく達を振り返った。

 

「いやぁ、みんなお疲れ様です! みんなのおかげで、いい誕生日になりました!」

 

 お義母さんは笑顔で、横並びにずらりと並んだスタッフさん一同の手を握ってく。弾むような足取りは、朝と変わらないエネルギッシュさで、舌を巻いてしまった。

 

 ――すごいなあ、お義母さん。

 

 自分のお誕生日やのに、誰より盛り上げて、みんなを労ってはる。お義母さんの後ろについて、野江家一同でミニギフトをせっせと渡しながら、眩しい思いで背中を見つめた。

 

「はい、おつかれ!」

 

 ギフトのワゴンが空っぽになり、本当にお開きになる。これから、仲良しで飲みに行ったり、ホテルに併設したモールに遊びに行く人達もいるみたい。

 宏兄とお兄さんは、お義父さんと一緒に何か話していた。会社の話やそうで……ぼくと綾人は、少し離れたところでパートナーを待っている。

 

「……お祭りのあとって感じやなあ」

「だなあ」

 

 楽しかった分、ちょっぴり寂しい。

 わいわいと賑やかなホールを眺めていると、がしりと肩を引き寄せられる。

 

「でもさ、いいパーティだったよな。オレ、もう腹いっぱいだぜ。何が一番うまかった?」

「そうやねえ。全部美味しかったけど……ぼくは、チーズのオムレツかなぁ」

「あー、アレ美味かった! オレはサーロインのローストビーフ」

 

 にししと笑う綾人の、着物が目に入る。

 

「あの、綾人。今日は本当に――ふぎゅ!」

 

 謝ろうとすると、鼻をぎゅっとつままれた。綾人は、メッと目を吊り上げる。

 

「それはナシ! 前から思ってたけど、ちょっと水くせえぞ」

「そ、そうかな?」

「おう。だって、お互い様だろ? ダチなんだから」

 

 綾人は、からりと笑った。どこまでも爽やかな笑顔に救われて……ぼくもにっこりした。

 

「ありがとう、綾人」

「おう! なあ、成己。これからモール行かん?」

 

 綾人が、びっと親指を立てる。

 

「モール?」 

「おかーさんは、おとーさんと水入らずらしいしさ。オレらも、ぱあっと――」

 

 綾人がいい終わる前に、べりっと引き剥がされていく。しかめっ面のお兄さんが、綾人の襟を掴んでいた。

 

「何すんだよ、朝匡!」

「お前は図々しすぎだ。成己さん、気にしないでくれ」

「いえっ。ぼくは嬉しいですっ」

「ほら見ろ、石頭!」

「何だと、このガキ!」

 

 ポンポン言い合う二人に、思わず笑いが漏れる。お兄さんって、ほんまにヤキモチ焼きなんやね。綾人に伝わってへんのが惜しいけど……。

 すると、後ろから抱きしめられた。芳しい香りがして――とくん、と鼓動が跳ねる。

 

「成、おつかれさん」

「宏兄! 宏兄も、おつかれさま」

 

 笑顔が眩しく見えて、どきどきしながら、お礼を言う。

 

「よく頑張ったなあ」

「ううん。宏兄のおかげです」

 

 宏兄が、いっぱい助けてくれたから。陽平とも、エンカウントしないように、ガードしてくれてたの、わかってるよ。

 染みるような気持ちで、宏兄を見つめていると――ひょこ、とお義母さんが顔を出す。

 

「ひゃあっ」 

「宏章、成くん。今日はありがとうねえ。本当に嬉しい、いい日になった!」

 

 お義母さんは、宏兄とぼくの手を、かわるがわる握ってくれた。

 ふっくらした手のあたたかさに、頬がほころぶ。

 

「こちらこそ、本当にありがとうございましたっ。お会いできて嬉しかったですし、すごく楽しかったです」

「おお、本当? 良かったぁ」

 

 にっこりと大きな笑顔に、宏兄が重なる。何だかくすぐったい気持ちでいると、お義母さんにぎゅっと手を握られる。

 

「ねえ、成くん。こないだ誕生日だったんでしょ? 僕のが先に祝ってもらっちゃって、ごめんね」

「いえっ、そんな……!」

「だからさ、ちょい遅くなったけど。これ……旦那と僕からのプレゼント」

「えっ?」

 

 きょとんとしていると、手のひらに小さな封筒が乗っかってる。リボンがついていて、可愛い。

 後ろから覗き込んだ宏兄が、目を丸くして言う。

 

「母さん。これってまさか」

「そのまさかだ」

 

 いつのまにか隣に来ていたお義父さんが、お義母さんの肩を抱いて頷く。お義母さんはお義父さんに寄り添って、可愛らしくしなを作って、ピースした。

 

「このホテルのお部屋だよ♡ 今夜は、楽しんでくれたら嬉しいな」

 

 

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