第171話

 ――椹木さんの婚約者が、蓑崎さん……?!

 

 ぼくは呆然として、温厚な笑みを浮かべる椹木さんの隣に立つ、蓑崎さんを凝視した。向こうも蒼白になって、目を瞠っている。

 

「蓑崎さんが……」

 

 掠れた声で、そう口にすると……そっと、肩を抱かれた。ハッとして隣を見ると、宏兄が静かな眼差しで、蓑崎さんを見ている。

 

 ――あ……宏兄……

 

 ぼくは、やっと地に足がついた心地になった。

 

「やあ、蓑崎さんじゃないですか。お久しぶりですね」

 

 宏兄は、落ち着いた声で挨拶をする。

 蓑崎さんはひっと息を飲み、肩を震わせた。この場から逃げ出したいみたいに、革靴を履いた足が、後じさっている。

 すると、椹木さんが励ますように、蓑崎さんの手を繋いだ。

 

「お二人は、晶君とお知り合いだったのですか?」

「ええ。とは言っても、僕は一度センターでお会いしたきりですが。城山さんと、妻と一緒に。ね?」  

「……っあ、」

 

 蓑崎さんは無言で小さく頷き、俯く。

 椹木さんの背中に隠れて、ぼくと宏兄の様子を、ちらちらと窺っているみたいや。――それは、人見知りの子どものような様子で、そんな彼を見たのは、初めてやった。

 椹木さんは、そんな蓑崎さんを慈しみ深い眼差しで見つめてる。

 

「晶君。……すみません、彼はあまり、私と公の場に出ることが無くて。大人しい子なんです」

 

 そう言って、かわりにぼく達に弁明しはった。

 

 ――お、大人しい? ……蓑崎さんが!?

 

 今までの彼の振る舞いを思い返しても――いちばん、ありえへん形容を聞いた気がする。いつでも、行動的に……うちにやって来ては、飲み会を開いていたのに?!

 あまりにわけがわからなくて、混乱してしまう。

 そもそも、聞いていた話と違いすぎるんやもん。 

 

『晶の婚約者は、あいつを産む道具にしか思ってない。冷えきった関係だ』

 

 って、陽平は言ってたのに。

 やから。やから……ぼくと別れて、蓑崎さんを守りたいって、言ったのに。

 でも、現実には……蓑崎さんの婚約者は、椹木さんで。彼はとても……陽平や蓑崎さんから聞いていた、冷たい人物とは思えなかった。

 ぼくは、目前の光景を見る。

 

「晶君、大丈夫です。私がついていますからね」

「……っ」

 

 蓑崎さんと手を繋ぎ、優しく励ます椹木さんに、いとけない子どものように頷く蓑崎さん。どう見ても……聞いていた話とかけ離れすぎている。

 

 ――じゃあ……この人が陽平に話したことは、何やったん? どうして……

 

「……う」

「成」

 

 キン、と耳鳴りがする。

 おなかの奥がじくじくと疼くように痛んできて、唇を噛み締めた。

 

 ――まずい……ちゃんとしなくちゃ……宏兄のご友人に失礼は……。

 

 すると、ぼくの背を抱く宏兄の腕に、強い力がこもる。切れ長の目が心配そうにのぞき込んでいて、ぼくは目を瞠った。

 耳元に、そっと囁かれる。 

 

「……もう行こう。顔色が悪い」

「……!」

 

 静かな目は、ぼくの「痛み」に、気づいてくれてるみたいやった。

 くしゃりと顔が歪む。――どうして、わかってくれるんやろう? 恥ずかしすぎて……宏兄には、陽平との別れ際にひどい愁嘆場を演じたことを、話せていないのに。

 

「貴彦さん、すみません。妻の具合が良くないようなので……」

「ああ、これは……! 気づかず、申し訳ありません。成己さん、お大事になさって下さいね」

 

 椹木さんは善良そのものに、ぼくを案じてくれた。その親切に、またキリキリとお腹が痛む。ぼくは、頬の筋肉を総動員して笑うと、頭を下げた。

 

「お気遣い、ありがとうございます。今日は、お会いできてうれしかったです」

「ええ、こちらこそ。そうだ――よろしければまた、お二人で当家に遊びに来て下さい」

「……!」

 

 椹木さんの提案に息を飲んだのは、ぼくやったのか。蓑崎さんやったのか……恐らく両方で。

 

「あッ……!」

 

 次の瞬間、蒼白になった蓑崎さんが、小さな悲鳴を上げて倒れた。わあっ! と周囲が驚きにどよめいた。

 

「晶君!」

 

 床に瘦身がぶつかる前に――椹木さんが、しっかりと抱き留める。床に膝まづいた彼は、腕に抱えた蓑崎さんの頬を撫で、何度も呼びかけていた。

 

「晶君、晶君……しっかりしてください!」

「う……っ、俺……」

 

 蓑崎さんは苦し気に呻くと、椹木さんの胸に頬を埋めた。――甘える様な仕草に、ぼくはぞっと総毛だつ。椹木さんは、痛みをこらえる様に眉を寄せ、口の中で何かつぶやいた。

 

「やはり無理をしていたんですね……私が止めるべきでした」

「貴彦さん。すぐに医師の手配をしますので、彼を静かな所へ」

「宏章さん、申しわけない。どうかお願いします!」

 

 宏兄が、支配人の男性を呼び、事情を説明する。迅速な動きで、支配人さんが椹木さんを「こちらへ」と先導していかはった。

 

「お騒がせして、申し訳ありません。通してください」

 

 蓑崎さんを腕に抱きかかえ、椹木さんが集まって来たお客さんたちの間を歩いていく。恋人を好奇の視線から守るように、しっかりと腕に抱える様に、女性のお客様から感嘆のため息が漏れた。

 

「……!」

 

 ふいに――蓑崎さんの長い腕が、縋るように椹木さんの首に回された。背中越しに見ても、椹木さんの抱擁が深くなったのがわかって……お昼ご飯を全部もどしそうになる。

 

「ううっ……」

 

 何なん、あの人。

 きらい。

 大っ嫌いや……!

 

 ぼくは、口を手で押さえ呻く。すると……近くの給仕さんの持っていたグラスの中に、ぼくの顔が映ってるのが見えた。

 

「え……」

 

 ひゅっと、息を飲む。

 ぼくの顔は、ばけものみたいに醜かった。蓑崎さんへの憎しみに歪んで……。

 どっと冷や汗が出る。ぼく、こんな顔をしていた? 

 

 ――いつから……?

 

 すると、集まって来たお客様に事情を説明していた宏兄が、ぼくを振り返りかけた。

 

「……!」

「――成!?」

 

 ぱっと身をひるがえしたぼくに、宏兄が驚いた声を上げる。

 

 ――ごめん、宏兄。ごめん……いま、傍にいられない……!

 

 ぼくは、集まったお客様の波に飛び込んで、逃げ出していた。

 

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