第165話
「あ……」
――ウソ。宏兄が、贈ってくれたスーツが……
全身から、さあっと血の気が引くのを感じた。
「大丈夫か、成己! ――何すんだよ、あんた!」
ぼくに駆け寄った綾人が、血相を変えて叫ぶ。蓑崎さんは、荒い呼吸を繰り返しながら、満面に侮蔑を浮かべていた。
「馬ッ鹿じゃねーの……! 陽平の前で、これ見よがしに着飾りやがって……汚いお前には、それがお似合いだよ!」
「……っ!」
彼の目の奥に、ぎらぎらと滾る憎悪を見て、ぼくは背筋が冷やりとする。怯んだ隙に、蓑崎さんは右手を高く振り上げた。
「成己!」
ガシャン!
床にたたきつけられたグラスが、粉々に砕ける音が響いた。わずかに残っていたワインが、大理石の床に血痕のように散る。
綾人が抱きかかえて、後ろに飛んでくれてなかったら……ぼくに直撃していただろう。
「……な、なんなんだよ、あいつ……」
ぼくを抱えたまま、綾人が呆然と呟く。驚愕で声も出せないまま、何度も頷いた。
――怖すぎる……なんで、こんなことするん?
グラスに気を取られているうちに、蓑崎さんは駆け去ってったみたい。革靴の音が遠ざかるのを聞きながら……ぼく達は床にへたりこんでいた。
しばらくして――綾人が、不安げにぼくの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、成己。痛いとこねーか?」
「うん。綾人のおかげっ……?」
頷きかけて、ぎょっとする。ぼくに触れていたせいで、綾人のスーツまでワインに汚れてる。慌てて体を離したけれど、しっかりとシミになってしまっていた。
「ご、ごめんね……! 綾人まで、ぼくのせいで……」
「馬鹿、そんなわけないじゃん!」
申し訳なくて半泣きになるぼくに、綾人がからっと笑う。「よっ」と手を引いて、立ち上がらせてくれた。優しさがしみて、すんと鼻を啜る。
「お前こそ、びしょ濡れだし。ひでぇ目にあったな……」
「あ……」
ぼく達は、困り顔を見合わせる。
ふたりとも、ひどい有様やった。せっかくのスーツがよれて、しみだらけ……。
グラス一杯って、けっこう多いんやね……なんて、現実逃避したくなる。
――どうしよう……この格好じゃ、外に出て行けへん。パーティに水をさしちゃう。
桜色のジャケットの裾をつまむと、ぽたりとワインが滴った。繊細な刺繍も淡い色の生地も、赤紫に染まってしまってる。
「……ううっ」
悔しくて、目が熱く滲む。
選んでくれた時の、宏兄の嬉しそうなほほ笑みが浮かんだ。
『成、すごく綺麗だ』
優しい声も甦ってきて、ぼくは唇をきりりと噛み締める。
宏兄には、こんな姿見せたくない――そう思ったら、めらめらと闘志が湧いてきた。
「……えいっ、負けるもんかー!」
パチン、と両手で頬を叩いて、喝を入れる。綾人が「成己?」と目を見開いている。
ぼくはくるりと振り返り、叫んだ。
「綾人っ、上脱いで! 応急処置しなくちゃっ」
幸いにも、ここはパウダールーム。水はあるし、紙も机もあるんやもん。
「えっ。でも、落ちんのか?」
「わからへん……でも、何とかやってみよ! このままでいたら、蓑崎さんに屈したみたいやし。何より、楽しみにしてきた自分が浮かばれへんもんっ」
そう言うと、綾人の目にも火が点る。
「よっしゃ、わかった!」
ぼく達はジャケットを脱ぎ、机に広げた。紙とハンカチで、せっせと汚れた生地を叩く。
たっぷりしみ込んだワインが、ハンカチに移っていくけれど……あんまりにも範囲が広い。
――でも、ぜーったい、負けたくないっ!
綾人も、一心不乱に生地を叩いてた。――お兄さんにスーツを褒められて、そっぽを向きながら嬉しそうにしてたの知ってる。
ごめん、綾人。巻き込んで。
罪悪感で胸が軋む。――そのとき、バタバタと慌ただしい足音が近づいて来た。
「――綾人様、成己様! こちらでしたか!」
「……佐藤さん!?」
佐藤さんが、パウダールームに駆け込んできた。
ぼくたちの有様をみて、蒼白になり、がばりと頭を直角に下げる。
「申し訳ありません! 朝匡様と宏章様に、お二人をお守りするよう言われていながら……このようなことに!」
「えっ?」
聞けば、佐藤さんはお兄さんと宏兄に頼まれて、こっそりと護衛してくれてたそう。
でも、足の弱いおばあさんを休憩スペースに案内してるうちに、ぼく達を見失ってしまったそうで。
「お二人を危険な目に遭わせるなど……本当に、お詫びのしようもございません」
「いや、全然いいって! ……それよか佐藤さん、オレらこんなんで。どうしよう?!」
土下座せんばかりの佐藤さんを、綾人が励ました。ぼくも、ハッとする。
「佐藤さん、来てくれてありがとうございますっ。どうか、助けて頂けませんか……!?」
佐藤さんの助けがあれば、この難局を打開できるかも。
じっと見上げると、佐藤さんは決然とした表情にならはった。
「わかりました。すぐに、ここから出られるように手筈を――」
「佐藤くーん。どしたの? えらい走ってっちゃって。お腹こわしたのかい?」
佐藤さんの声に、のんびりした声が被った。
展開にデジャヴを感じつつ、入り口を見れば……上品な和服の男の人。
「――お義母さん!」
ぼくと綾人は、同時に声を上げた。
「ん?」
お義母さんは、ひょこ、と佐藤さんの背から顔を出さはった。
次の瞬間……常に笑って見える目が、カッと見開かれる。
「でえっ?! 綾くん、成くん……どうしたのそれ?!!」
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