第164話

 ピンストライプのスーツを纏った彼は、ドアに軽く凭れるようにして、立っていた。鋭いまでに綺麗な顔に、人懐っこい笑みを浮かべ――長い指の間で、ワイングラスを揺らしている。

 久しぶりに見た蓑崎さんは、やっぱり凄く綺麗で……胸が潰されそうになる。

 

「久しぶり、成己くん。まさか、こんなところで会うとは思わなかったなぁ」

「……お久しぶりです」

 

 蓑崎さんは、ぼくらの間には不釣り合いに、朗らかな声音で話しかけてきた。

 

 ――ふつう、話しかけてくる……? どうなってるん、この人。

 

 ぼくは、ぐっと唇を噛み締める。 

 

「……成己。この人、知り合いか?」

 

 綾人がわずかに警戒の滲んだ声で、言う。ぼくの態度で、好ましくない人やと感じてくれているみたい。

 心配してくれる友だちの存在に、ぼくは平常心を取り戻した。

 

「うん。この人は、蓑崎さん。友達の友達で」

「ともだち!? へえー、そうなんだ」

 

 綾人に説明していると、素っ頓狂な声に遮られた。

 

「なんですか?」

 

 ぼくは、ムッとして、反射的に問い返す。蓑崎さんは、片頬をつり上げて笑うと、皮肉っぽい口調で言った。

 

「別に? 成己くんにとって、陽平って友達でしかなかったんだなあって、思っただけだよ。やっぱり、恋人は”別にいる”って認識だったんだね。可愛い顔して、怖いなあ」

「……はい?」

 

 ぴく、と米神が引き攣った。

 この男……わざわざ揚げ足取りして、何がしたいんよ。まるで意味が分からない。

 

――ていうか、なんでぼくが嫌味言われてるん? 言いたいことがあるのは、ぼくの方やけど。

 

 むかむかしてきて、ぼくは蓑崎さんをキッと睨みつけた。

 

「何なんですか? 言いたいことあるんやったら、はっきり言うたらどうですか」

「……ふうん? やっぱり太いねー、成己くんて。猫被ってるより、話しが速くていいけどさ」

 

 蓑崎さんは、すうと目を細めた。

 言うてることと裏腹に、「不快」――その感情が、顔一杯に浮かんでいる。

 

「じゃあ、言わせてもらう。成己くんさあ、自分が恥ずかしくないの? よくお綺麗ぶって、結婚なんか出来るよね」

「――あ?」

 

 綾人の目つきが、剣呑になる。ぼくは「大丈夫」と頷いて、蓑崎さんに向き直った。

 

「はい。少なくとも、あなたに恥じたりしません」

 

 ぼくと宏兄の結婚に、蓑崎さんは関係ないんやから――そういう気持ちを込めて、見返してやる。蓑崎さんは、一瞬鼻白んだようやったけど……すぐに、にっと唇が撓った。

 

「はは、凄いね。婚約者を隠れ蓑にして恋人を咥えこむには、それだけ鈍感じゃなくちゃってことか。陽平も可哀そうだよなあ」

「……っぼくは、陽平を隠れ蓑にしたことなんて、ありません。してもないことで、申し訳なく思ったりできませんから……!」

 

 酷い言いがかりに、腕をきつく握る。――引っ叩きそうになるのを、堪えるのに必死やった。

 この人は一応、お義母さんのお客さんや。それに……殴ったりしたら、陽平が怒ってくるかもしれへん。

 ぼくの不始末で、野江家に迷惑をかけたくなかった。

 

「えーっ、本当かなあ?」

 

 蓑崎さんは、顔を寄せてきた。――獲物を甚振る猫のような顔で、笑う。

 

「だったら、陽平の言う通り――成己くんって、結婚出来れば誰でもいいんだ! だって、陽平にしたように、あの人に甘えて。あの人の子どもだって、産めちゃうんだろ? いやー、凄い凄い。オメガの本能、丸出しだね!」

「てめえッ。黙って聞いてりゃ、いい加減にしろよ!」

 

 ぼくより先に、綾人が叫んだ。

 

「綾人……!」

 

 気色ばんで、蓑崎さんに掴みかかろうとするのを、ぼくは飛びついて止める。

 蓑崎さんは、余裕の笑みで見ていた。――わざと、挑発しているんや……そう気づいた瞬間、頭のどこかで「ぶちり」と音が鳴る。 

 

「……綾人、待って!」

「成己、でも――」 

「いいの。ぼくのためにありがとう……大丈夫やから」

 

 にっこりとほほ笑むと、綾人が目を丸くする。……「うん」と頷いてくれて、腕の中の体からこわばりが抜ける。

 ぼくは、蓑崎さんに向き直った。

 

「蓑崎さんこそ。腹割った途端に、意地悪ばっかり言いますね」

「……は?」

 

 蓑崎さんは怪訝そうに、片眉を跳ねさせる。

 ぼくは、にっこり笑う。

 考えてみれば、陽平と別れたいま――この人とぼくには、何も関係がない。だったら、言いたいこと言ってやるんやから!

 

「でも、してもいないことで責められても困ります。この際、はっきり言わせてもらいますけど、迷惑です」

「なっ……」

「ぼくを悪者にしたら、気持ちが楽になりますか? 本当は、悪いことしてる自覚があるんでしょう。だから、自分のやったことを、ぼくにもしてて欲しいんですよね?」

 

 婚約者がいながら。ただの友達だといいながら……陽平と関係を持っていたのは、どこの誰なん?

 言外に含ませると、蓑崎さんの白い頬がさっと紅潮する。わが身を庇うように抱きしめ、ぼくを射るように睨みつけてきた。

 

「……幸せな成己くんに、何がわかんだよ。いつでも、ぬくぬくと守られてるくせに……!」

「わかりません。でも……陽平が、貴方をどれだけ思っているかは知ってます」

  

 だって、陽平は……あなたを守るためにぼくと別れたんやもの。

 蓑崎さんの事情は、それは大変なものかもしれへん。それでも……ぼくに八つ当たりするなんて、お門違いにも程がある。

 キッ、と蓑崎さんを睨み返す。

 

「ぼくはもう、あなたと関係ありません。あなたの問題は、あなたが自分で解決してください!」

 

 ぼくは、ぴしゃりと宣言すると――綾人を振り返る。

 

「ごめんね、綾人。行こっか」

「お、おう!?」

 

 綾人は、ちょっと呆気に取られていたようで、慌てて頷いてくれた。

 もう、言いたいことは言ったから、蓑崎さんの横をすり抜けようとする。

 

「……っ、ふざけるなよ! お前の方が、汚いオメガのくせに……!」

「……えっ?」

 

 怒声に振り返れば――憤怒の表情で、蓑崎さんが持っていたグラスを振りかぶっていた。とっさに、綾人をどん! と押しのけて――

 

 ――ばしゃっ!

 

「成己!」

「あ……」

 

 髪から落ちる、赤紫の雫が床を汚す。

 鏡に映ったぼくは、酷い有様やった。頭からワインをかぶって……髪も、桜色のスーツも、赤紫に汚れてしまっていた。

 

 

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