第163話

 二人組の若者は、青ざめて謝罪すると、足早に去っていってしまった。

 ぼくは安堵して、ぺこりと頭を下げる。


「ありがとうございましたっ。本当に助かりました……!」


 お義母さんのパーティで、大騒ぎするわけに行かへんもの。

 感謝を込めて見上げると、男性は、穏やかな物腰で微笑した。


「いえ。お力になれたなら何よりです」


 生真面目な応えは、誠実そのもの。不思議な人やと思った。こんなに怖くないアルファは、初めて会った。

 すると、隣の綾人が「あの!」と声を上げた。


「さ、椹木さんって、おっしゃいましたよね! もしかして……」

「あ、綾人?」


 ずい、と身を乗り出した綾人にびっくりする。ど、どうしたんやろう? 綾人の目は、何かの期待できらめいてた。

 男性は、穏やかな調子を崩さず、丁寧に一礼した。


「ああ、申し遅れました。私は、椹木貴彦さわらぎ・たかひこと申します」

「――やっぱり!」


 綾人は、ぱあっと眩しい笑顔になった。頬が上気して、生気に漲る。綾人は、ぼくの肩をガシリと掴み、興奮気味にまくし立てた。


「成己! この人、椹木製薬の……こないだ見た研究所の、所長さんだよ!」

「ええっ!?」


 ぼくは、目がまん丸くなる。――この男性が、あの……抑制剤を作ってはる人……?! 

 胸を興奮がつきあげて、飛び上がりそうになる。


「お、お初にお目にかかりますっ。ぼく、椹木さんの抑制剤にいつも本当にお世話になってて……!」

「オレも! オレもっす!」


 綾人が、はいと手を上げた。


「オレ、ずっと椹木さんにお礼を言いたいと思ってて……あ、オレは……」

「存じ上げていますよ、野江綾人さん。――いえ、田島綾人選手」

「……あ!」


 椹木さんの言葉に、綾人が稲妻に打たれたように震えた。


「オレのこと、ご存知で……?」

「私も、学生時代からテニスを嗜んでおりまして……三年前のインターハイも観に行きました。田島選手の熱戦、今も目に焼き付いています」

「……っ」


 真っ直ぐな賛辞を、綾人は唇を結んで聞いていた。……泣くのを堪えてるように見えて、ぼくはそっと背に手を添える。


「だからこそ……今でも、協会の判断は不当だったと、悔しくてなりません」


 椹木さんの声には、心からの義憤や、思いやりに溢れていた。

 綾人の目から、涙がこぼれ落ちる。


「……綾人」

「ごめ……大丈夫」


 綾人は鼻を啜り、ぼくに親指を立てると……椹木さんに深く頭を下げた。


「オレ、椹木さんとこの抑制剤があったから……最後まで、戦えました。悔いを残さずに、やりきれた。だから――本当にありがとうございました」

「……光栄です。そんな風に言って頂けて……私の方こそ、ありがとうございます」


 椹木さんの目にも涙が光っていた。鷹のような目には、真っ直ぐな誠実さが燃えている。――小説に向かうときの、宏兄と同じ目。


「……」


――事情は、わからへん。でも……


 ぼくは、ふたりのやり取りに胸がいっぱいになっていた。相手への尊敬に満ちていて――神聖で、あたたかい。

 晴れやかに笑って涙を流す綾人に、ぼくはそっと寄り添った。







「ごめんな、びっくりしたろ」


 洗面台から顔をあげて、綾人が言う。声には、少しの照れが含まれていた。

 パウダールームには、ぼくと綾人の二人だけしかいなくて、気兼ねはいらない。


「ううん。たしかに驚いたけど……」


 ぼくは、びしょ濡れの綾人の顔を、ハンカチでそっと拭った。

 気持ちよさそうに目を細めて、されるがままになっていた彼は……ふいに呟く。


「オレさあ。高三まで、自分がオメガだって知らなかったんだ」

「……!」


 突然の告白に、息を飲む。

 綾人は穏やかに笑って、髪をかき上げた。――米神に、うす紅色の花の紋様がある。


「オメガ性が弱いから、ベータとして暮らしてけるだろうって、お医者に言われてたんだって。でも、高三の春、いきなり発情期になっちまってさ。そんで……テニスの公式戦、出れなくなっちまったんだ」


 オメガは、ベータやアルファの出場する大会には出場できない。――フェロモンを発し、事故が起きる危険性があるから。


「……っ、それで……」


 ……以前、アルファのライバルが居るって言ってた。ベータとして、公式戦に出ていたからやったんやね。

 いきなり、戦う場所を奪われて……綾人は、どれだけ辛かったやろう。

 ずき、と胸が痛む。


「綾人……」

「でも、椹木さんの抑制剤があったから。ライバルとの試合、ちゃんと出来た。あいつと、最後に最高の試合して、海外へ送り出してやれたんだ」

「そうやったの……」


 綾人の告白に、ぼくは衝撃を受けていた。

 ぼくは、ギュッと綾人の手を握る。


「綾人。話してくれて、ありがとう。綾人……ほんまに、すごいよ」


 綾人は強い。――でも、簡単に強いわけやない。一生懸命、乗り越えてきたんや。

 涙で滲む視界に、綾人が笑ったのがわかる。


「へへ。聞いてくれて、ありがとうな!」


 ぼく達は、にっこりとほほ笑みあった。握った手から、温かな温もりが行き交う。


 カツ……


 すると、床を踏みならす音が聞こえてきて、入り口を振り返った。

 そして、目を見開く。


「あれ? 成己くん。こんなとこで、逢引中かな?」


 楽しげな笑みを浮かべる、白皙の美貌の持ち主。長い睫毛に縁取られた瞳に、冷酷な光が揺れていた。


「蓑崎さん……」

 

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