第166話【SIDE:晶】

「はぁ……はぁ……」

 

 走って、走って――人気のない通路に出ると、俺はやっと足を止めた。膝に手をついて、激しい呼吸を繰り返す。

 

「……うっ」

 

 頭の中が、真っ白だ。自分がどうやって、ここまで走って来たのかもわからない。――ぶつけられた酷い侮辱に、胸の中がかき回されていたから。

 

「はぁ……」

 

 壁に手をついて、ずるずるとしゃがみ込む。ああ――会場に戻らないといけない。誰にも何も、言わずに来たから……きっと、陽平ママは心配してる。

 

「……はあ。馬鹿だな、俺」

 

 大事なパーティの最中だってのに。

 パウダールームに向かう成己くんの姿を見て、後を追わずにはいられなかった。

 

 ――だって、そうだろ? あいつは陽平が来てることにも気づいてなかった。へらへら、パーティを楽しんでるんだぞ、他の男に贈られた服を着て……

 

 およそ、人の気持ちがわかる人間なら出来ない行動だ。

 陽平が、どれだけお前に想いをかけていたか、本当にわからないのか? それとも、愛され慣れた人間は、ああも鈍感なんだろうか。向けられた愛情に鈍感なのは、美徳じゃない。――ただの「傲慢」だと、彼を見ていると、思い知らされる。

 

 ――だから、どうしても一言いってやりたかった。なのに、あの野郎……

 

 ぎり、と奥歯を噛み締める。

 自分を棚に上げて、人の身体的事情を責めてきやがるなんて。

 

――『自分がやったことを、ぼくにもしてて欲しいんですよね?』

 

 取りすました声が、リフレインする。

 

「……くッそ……!」

 

 髪をぐしゃりと掻き回し、俺は呻いた。

 

 ――あの、くそオメガ……! よくも、オメガのくせに……俺を侮辱しやがったな……!

 

 この体の事情を、知っているくせに。――俺が、どんな辛い思いで陽平アルファとセックスしているか、わかろうともしないで。

 

「馬鹿だった……あんな奴を、いっときでも友達と思ったなんて……」

  

 あいつも所詮、アルファの為なら、友情もかなぐり捨てる汚いオメガだったんだ。陽平のパートナーだと言うだけで、自分の繊細な事情を話してしまったなんて。

 

「……はは」

 

 ふ、と憫笑が漏れた。 

 成己くんは……自分の非を認めない為なら、他人の弱点を抉ってもいいと思ってるんだろうな。

 なんて醜く、歪んだ生き方なんだろう。

 

「凄いよな……成己くんは。自分が幸せになるためなら、なんだってするんだ」

 

 ……羨ましいとは、思わない。

 あんな風に、人を傷つけていることも知らず、本能的に幸せになんかなりたくない。そんな浅ましい生き方をするくらいなら――この地獄でひとり、もがいていたいと思う。

 たとえ、どれだけ苦しくても…… 

 

「俺は、いらねぇ。アルファの愛なんか……」

 

 吐き捨てるように言い、わが身をきつく抱きしめる。――胸の奥が、凍てた風が吹き荒れるのに、気づかないふりをして。きつく肩を、背を、かきむしる。

 

――『……きみは、きみの好きに生きていいんですよ』

 

「……!」

 

 ふいに、穏やかな低い声が脳裏に過り……目を見開く。

 

「……っ、うるさい!」

 

――『……どうか、私を信じて下さい。君のことを守りたいんです』

 

「うるさい、うるさい……!」

 

 激しく頭を振り、声を振り払う。

 俺は、汚いオメガじゃない!

 手の甲に爪を立てて、甘えた心を律する。そうしないと、崩れてしまいそうだった。



 

 

 

 いくばくか、時がたち……

 ふと、絨毯を踏みしめる音が、近づいて来た。

 俺は肩を震わせ、壁に身を寄せる。――しかし、足音の主は声をかけてくる。

 

「――あの? 具合が悪いんですか?」

 

 上等な革靴を履いた足が、四本。声は若い。――ふわ、と甘い香りが香る。

 ……アルファだと、察しをつける。

 十中八九、野江のパーティの客だろう。社交の場を、見合い会場かなんかと勘違いしてる連中は多い。

 

「……っ。お構いなく」 

「いえ、そういうわけには。誰か呼んできましょうか」

 

 そっぽを向いて返事をするのに、相手はしつこい。介抱するつもりなのか、俺の肩を抱いた。

 

「ちょっと、離し……!?」

 

 あらがおうとした途端、ドクンと心臓が大きく跳ねる。

 体が熱くなり、呼吸が速くなる。

 

「あ……っ」

「……っ、これは」

 

 急激な発情に、俺は男の腕にしなだれてしまう。俺の意思じゃないのに――男は色めき立ち、抱きしめてきた。

 

「おい、発情してるぞ。この子」

「だったら、連れてこうか。さっきも、空振りだったしさ」

「やめ……」

 

 興奮しているらしい、男の犬のような息が顔にかかる。俺は、必死に押しのけようとするけれど……頬を撫でられると、吐息が震えた。

 

「あっ……!」

「おっ……もう準備万端じゃん」

「いやだ……!」

 

 腰を撫でられて、甘い吐息が漏れる。いやなのに……体の奥が、熱く潤みだす。人気がないのをいいことに、男たちは俺を腕に抱えた。どこかの部屋に連れ込む相談をしているのが聞こえる。

 

 ――まずい、このままじゃ……

 

 胸の内が、恐怖に満たされる。けれど……発情と、飲酒のせいか足に力が入らない。男たちに肩を抱かれ、引きずられて行ってしまう。

 

「助けて……!」

 

 きつく目を閉じて、叫んだときだった。

 慌ただしい足音が近づいて――後ろに引き寄せられる。清冽な白檀の香があたりに香った。

 どさり。なにか、重いものがふたつ倒れる音がして……俺は、温かい腕に抱かれているのを感じた。

 

「……あ」

「晶君。遅くなって、すみません」

 

 あの人の声が、聞こえる。

 心底安堵したような、深いため息の音も。俺は、とくりと胸が鼓動するのを感じた。


「……っ」


 顔を見なくても、わかってしまうのは、婚約者だからか……それとも。

 この危うい考えに、必死で頭を振った。

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