第155話【SIDE:陽平母】

 朝って、あまり好きじゃないのよね。

 まず私ね、血圧が高くないの。だから、頭が痛くて起きるのが辛いし、日差しがやけに白いのもいや。小さいころは体が弱かったから、その名残かも知れないけれど。

 

「んん……」

 

 ベッドの上で、眉を顰める。私は、もぞもぞとブランケットの中で、体を伸ばした。一人には広すぎるベッドでは、どれだけ手足を伸ばしても、シーツにしか触らない。

 

 ――……こんなに広いベッドにしなくて良いって、言ったのに。

 

 えい、と気合を入れて身を起こすと、使用人を呼んだ。寝覚めの白湯を待っている間、縺れた髪を手櫛で整えた。ドレッサーにうつる私は、物憂げな顔をしてる。

 白い肌に映える赤い花を、見るともなしに眺めていると――ノックの音が響いた。

 

「おはようございます、奥様」

「おはよう」

 

 恭しく扉を開けて、やって来た使用人にほほ笑みかけた。

 

 

 朝食のかわりに、朝のかかせない習慣の、ヨガを行う。

 友達の一人に、「子供が出て行くと、食べる気になりませんよね」だなんて言われたけれど、一緒にしないでと思う。私は、陽平のいるときだって、食べなかったんだから。そりゃ、母親として一緒に食卓にはついていたけれど、そんなことでポリシーを曲げる女じゃないの。

 例外は、夫がいる時だけ。

 古風なあの人は、食べないこと=健康を損なう事だって、信じ切ってるから。

 

「困ったものよねー……」

 

 体を伸ばしながら、ゆっくりと息を吐く。

 自宅のスタジオには、四方の壁は鏡になっているの。自分の体を、毎日チェックするために。

 動きを確かめながら、筋肉を伸縮させる。トレーニングは――ゆっくりと、タフに行う。そのうちに、若いときと変わらない、甘酸っぱい汗が溢れ出す。

 

「……すこし、痩せたかしら? いやねえ、疲れて見えるじゃない」

 

 美しさを保つために、かかせないものは健康。

 凡庸なベータと違って、アルファやオメガには、美しさは標準装備なの。それを保つために、なにも特別なことはいらない。ただ、自分にあった生活をし、健康でいれば美しさは保たれる。

 

 ――けれど、磨くにはそれだけじゃだめ。努力しなくちゃ。

 

 だってオメガにとって、美しいことは礼儀作法と同じ。

 オメガに美しさが標準装備なら、その中でも一番美しいことが、社交界では一流ということなの。

 くだらない社交辞令より、美人の眉の顰のほうが強力であるように。醜いベータのプレゼンよりも、オメガの投げ出した足にこそ、偉い社長が陶酔するようにね。

 

 ――昔からずっと変わらない、社交界のオキテ。だからこそ私が、社交界の華なの……!

 

 実家で過ごした少女時代も。あの人と出会い、二十歳で陽平を産んでからも……ずっと。私は美しくあれと言われ、その期待に応えてきたわ。

 それは外面の美しさだけではないわ。私は海外の名門大学を出た才媛であり、顔だけのバカとは違うの。

 

 ――だからって、頭でっかちのブスに価値はないけれどね。だって、「ブスだから勉強を頑張った」なんて、必要最低限の努力を誇られても、ねえ。

 

 社交界の目の上のたんこぶを思い出し、フンと鼻で笑う。

 野江家の当主夫人。あの勘違い男――ちょっと毛並みのいいアルファに気に入られたからって、でかい顔して何様のつもりかしら? あんなのがいるから、社交界の品格が疑われるのよ。

 

「まったく、やんなっちゃうわね……っと」

 

 マットに結跏趺坐し、ゆっくりと息を吐く。心の澱を吐き出すように――ゆっくりと、深く吐く。この頃は、色々と考えることが多いから、念入りにしなくちゃ。

 

 ――これからが、肝心なのよ。やっと、一つの問題が片付いたんだから……

 

 陽平にとって、私にとって……何より、あの人にとっての、最良の選択の為に!

 肘を掴んで、じっくりと肩を伸ばしていたときだった。側に置いていたスマホが着信する。――モーニングコール。私は、パッと笑顔になった。

 

「――はい!」

『おはよう、弓依ゆえ

 

 低い、錆びた声が私の名前を呼ぶ。――どんな健康法よりも、私の細胞を喜ばせてくれる、素敵な声。

 

「おはよう、あなた。今日も時間ピッタリね。昨夜は遅かったんじゃないの?」

『まあね。でも、この習慣があるから、寝坊せずにいられるよ』

「ふふっ、やあだぁ……ねえ、今朝はどれだけ? あなた、今着替えしてるでしょ?」

『ああ……あとニ十分で運転手が来る』

「じゃあ、それまで話しましょ」

 

 マットに寝転がって、夫との朝のひと時を楽しむ。

 城山の当主として忙しいあの人は、常に家を空けている。有能な夫を持てて幸せだけれど、寂しくないわけじゃないから……彼との時間は、何にも代えがたいわ。

 

『ところで、陽平の結婚式の準備は順調かな?』

「……ええ! 順調よ」

 

 唐突な質問に、笑みで返す。

 

『私の都合で、来月になって済まない。あいつは、ちゃんと成己さんに説明できただろうか?』

「大丈夫よ。わかってくれたわ」

「そうか。待ちに待った新婚生活だろうが……羽目を外しすぎないよう、君からも注意してやってくれ』

「わかったわ、あなた」

『ありがとう。――運転手が来た。じゃあ、行ってくるよ』

「行ってらっしゃい。愛してるわ」

『同じく。あと、朝食は食べるように』

 

 色気のない一言を最後に、通話は切れた。私は、「ふう」とため息をついて、マットに倒れた。

 

「あーあ。一日の楽しい時間が、もう終わっちゃった……」

 

 有能な夫を持てて幸せよ。でも、寂しくないわけじゃないんだからね。少し、恨めしい気持ちでスマホを睨む。

 

 ――『陽平の結婚式の準備は、順調かな?』

 

 それでも、彼の声を思い出し、使用人を呼んだ。これから身ぎれいにし、ある場所へ行かなければならない。

 彼の為に、するべきことをしなければならないから。

 

「ふふっ」

 

 そう……陽平の、結婚式の準備をね。――やっと、間違った伴侶を追い出せた。

 正しい伴侶を迎える準備が整ったんだもの。

 

 

 


 

 時計の針が正午を回った頃――私は、一等地に建つビルの、アクティビティホールへと足を踏み入れた。

 高度なセキュリティシステムに守られたここは、オメガ婦人たちの社交の場の一つ。お茶やお花など……高名な先生を招き、婦人向けの講座が開かれていた。

 と言っても、高額の会費を払える婦人しかこられないから……通うのは一流のものだけになる。

「城山様、いつもありがとうございます。本日は、ティールームのご利用ですか?」

「ふふ。今日はいいわ。ちょっと待ち合わせがあるの」

 

 私は会員証を通し、中へ入る。フロントマンは、夢想するような目で私の背を見送っていた。

 

「あいつは……今日の十時から、お花の部ね」

 

 友人から得た情報を頼りに、待ち伏せをする。――少しもしないで、目当ての人物が扉から出てきた。友人と思しき数人と、談笑しながら歩いてくる。

 

 ――相変わらず、凡庸な男……

 

 心の中で、軽蔑しながらも――私は、完璧な笑みを浮かべ、その一群へ近づいた。

 

「あら、ごきげんよう野江さん。偶然ですわね」

「城山さん! こんにちは」

 

 凡庸極まりない顔に笑みを浮かべ、野江夫人がぴたりとお辞儀をする。しょっちょこばった、面白くもない男……そんな内心はおくびにも出さず、私は朗らかに言葉を続けた。

 

「そうだ。宏章さん、ご婚約なさったんですってね」

「そうなんです! いやあ、ずっとふらふらしてるから、心配だったんですが……」

「いえ……そのことで。あの、この後お時間よろしいですか? 私、宏章さんのお相手のことで……お耳に入れたいことがありますの」

 

 意味深に声を潜めると、野江の目が丸く見開かれた。それから、不安そうに頷く。

 

「えっ……はい。なんでしょう?」

 

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