第156話【SIDE:陽平】
『陽平。陽平……風邪ひいちゃうよ』
やわらかな囁きが、背に落ちてくる。ああ、またお節介やきが来た……夢うつつに思い、俺は、いつものように答える。
『うるさいな……夏だし、平気だろ……』
『ダメ。そう言うて、いつも風邪ひくやろっ』
甘い声音は、「仕方ないなあ」と言いたげだ。――自分の方がガキみたいなくせに、ガキ扱いしやがって。
むっとして、唸るふりして寝返りをうってやる。すると、背中に小さな手が乗っかってきた。
『ほら、陽平。起ーきーてっ』
ゆすゆすと、優しく背を揺らされて、眉を寄せる。ったく、お節介やきめ。
むず痒い真似、すんなよな。
「……成己、うるせえって――」
そうして――唐突に夢が破れた。
「……っ!」
机に突っ伏して、眠っていたらしい。下敷きにしていたノートは、腕で擦れたのか、文字が滲んでいた。
「え……?」
まだ朦朧とする意識で、あたりを見回す。……眠る前と変わらない、一人の自室だった。微かなエアコンの音だけが、響いている。
お節介やきの姿は、ない。
――夢だったのか。
内心で呟くと、ぶるりと身震いした。
急に、肌寒さが増した気がして、手のひらで腕を擦る。――暑いからって、エアコンをきかせ過ぎたか?
「さっむ……」
その上、肩や首がガチガチに強張っている。このところ、根を詰めて勉強していたせいかもしれねぇ。
時計を見ると、すでに深夜近い。そう言えば、夕飯も食っていなかった気がする。
「……いったん、休憩するか」
まず、何か腹に入れて――それから、たしか夏用のブランケットがあったはずだ。あれをとってこよう。
そう算段をつけて、痛む肩を擦りながら、キッチンへと向かった。
黒鉛で汚れた手を洗い、冷蔵庫を開ける。
ビールと、大学の帰りに買って来た弁当が袋ごと入っている以外、殆どがらんどうだ。食材が入っていないと、こんなに眩しいものなのだと、知ったのは最近だった。
「……はぁ」
食欲は無いが、ビールと弁当を出して、遅い夕食にする。
弁当をレンジに放り込み、スマホを操作する。――連絡は、あまり来ていない。大学の奴らの誘いが減ったからだろう。
あいつらには、最初は薄情だと腹が立ったが、いずれにしろ試験期間だ。
どうでもいい。
「あとは……母さんと、晶か……」
気乗りしない思いで、確認する。
母さんからは予想通り、晶のことでせっつく内容だ。返信せず、晶の方を見れば――婚約者の家に居る旨だった。
「婚約者の家に……?」
俺は、はたと訝しく思う。
この所、晶は家に来ておらず、大学にも行っていないらしかった。
あいつが言わないので、わざわざ聞かないが……恐らく、ヒートだったんだと思う。婚約者の家にいるなら、無事には違いないけれど。
――婚約者と二人って……あいつ、大丈夫なのか?
『ヒートのとき、死にたくならないオメガって幸せだよな。俺は……俺を思ってもない奴に抱かれて……自分が世界一汚いって思っちまうから』
以前、晶と酒を飲んだとき、そう言って泣いていたことを思い出す。
晶は、大嫌いなヒートを終えて……今も嫌いな婚約者の側に居る。
不安な思いを抱えているんじゃないのか?
――しまった。もっと、気にしてやるべきだった。
こんな重要なことを失念していたとは。
焦って、電話をかけると……七コール後に晶は出た。
『もしもし? なんだよ、陽平』
「メール見た。婚約者の家って、平気なのか?」
明るい声に拍子抜けしたが、聞いてみる。すると、晶は笑った。
『ガキじゃないんだし、いちいち心配すんなっての。試験もあるし、お前の面倒見に行けねぇだけ』
「……本当か?」
『マジだって』
晶の声の明るさが、本当か嘘なのか判じかねていると……背後でレンジが音を立てる。
『なに、お前。チン飯してんの?』
耳ざとく気づいた晶が言う。ばつが悪い思いで頷くと、けらけらと笑い声が上がった。
『なーんだ。それで、電話かけてきたのかよ? 心配してるふりして、ちゃっかりした奴』
「そういうわけじゃ……!」
『はいはい、陽平ちゃん。近いうち、メシ作りに行ってやるからさ。あ、掃除くらいは自分でしとけよ!』
そう言い残し、晶は通話を切った。ツー……と、無機質な音を立てるスマホを、きつく握りしめた。
――……そんなつもりで、言ったんじゃねえよ!
俺なりに心配して……それなのに、なんで晶はあーいう受けとり方するんだよ。
俺が。誰のために、俺が……!!
ダン! と拳をテーブルに叩きつける。
胸の中で、熱いものがぐるぐるして、きつく歯を食いしばった。――でないと、良くないことを口走りそうで。
「……っ。メシ……」
深く息を吐き、なんとか気を持ち直す。ふらふらとレンジを開けると、温まったプラスチックの匂いが、もわりと鼻を刺す。
「……うっ」
その匂いが疲れた体に障り、軽くえづく。大学の近くにある店の弁当は、彩りも味も良いって評判だ。
けれど……最近、こればかりだったせいなのか。とても食べる気にならず、テーブルに置くだけ置いた。
「……」
口と鼻を手で覆い、椅子に座り込む。
なんだか、ひどく疲れている。仕方なく、ビールだけ開けて口に含んだ。
苦い泡が、舌を濡らす。
――……違う。
飲んだ瞬間、そう思った。それでも、意地になって飲み続けると……じわじわと喉が焼けていく。
「……は」
一缶空けてしまい、俺は濡れた唇を拭う。
続けて、もう一缶。がぶがぶと飲んでいると、胃ばかり膨れて、だるさに似た酩酊が体に巻き付いた。
でも、違う。欲しいのはこれじゃない……そんな焦りにかられ、もう一缶、さらに開けようとしたときだった。
『陽平。お酒ばっかり、あかんよ?』
ぴた、と手が止まる。
柔らかな声が、続けた。
『はい、こっちも同じ麦やからね。キンキンに冷えてます』
カラン、と氷の鳴る音が聴こえ……つばを飲む。
そうだ。……夏になったら、あいつが冷蔵庫に作っていた。
「……麦茶、飲みてぇ……」
ぽろりと口から出た言葉に、胸が詰まる。
そのことに酷く焦燥し、苛立った。
「…………どうでもいいッ」
あんな安い茶。実家に居るときは飲んだこともなかった。そんなもの、飲みたいなんて思うはずないのに……
「……クソッ!」
ビールの缶を、テーブルに叩きつけた。
口の中に、あのほろ苦い甘さがよみがえってくる。なんでか、体が求めているのは、あれだった。
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