第137話【SIDE:陽平】

 実家のリビングのソファで、俺は母さんと向き合っていた。大学に行こうとしたところ、呼び出されたのだ。

 

「陽平ちゃん、どうしたの? 浮かない顔して」

 

 ティーカップを片手に、母さんが小首をかしげる。

 出された茶に手もつけず、座り込んでいる俺が不思議なのだろう。

 

「……母さんこそ、急になんなんだよ。俺、講義あんだけど」

 

 今朝、目が覚めて見りゃ、晶はいないし。追いかけようにも、玄関の惨憺たる有様を、放っておくわけにはいかず――ようやく、掃除を終えたところだったのに。

 不満を述べると、母さんはくすくすと笑いを零す。

 

「いいじゃない。日数くらい、計算してるんでしょ」

「そうだけど……」

「ねえ、それより、晶ちゃんとは最近どうなの。仲良くやってるの?」

 

 母さんは、「話は終わり」とばかりに手を叩き、身を乗り出す。昔から、なんでも自分の思い通りにする人だ。俺はため息をつき、応えを返す。

 

「別に、普通だよ」

「もう、なに照れてるのかしら。そろそろ、婚約とかしないの?」

「はあ?!」

 

 とんでもない期待に、ぎょっとする。

 

「そんなわけないだろ! あいつは、婚約者がいるんだぞ」

「何言ってるの! 晶ちゃんの婚約者って、酷い奴なんだからね。私、よく相談されてるから知ってるのよ。仕事ばかりで、発情期くらいしかマメに帰ってこないし。プレゼントだって、趣味じゃないものばかりだって! 奪ってあげた方が、晶ちゃんも幸せに決まってるわよ」

 

 拳を握り、力説する母さんに腰が引けてしまう。

 つか、その理屈だと、母さんも父さんと離婚する羽目になるような気がするけど……

 

「俺はただ、晶を守りたいだけだ。奪おうとかじゃない。それに、あいつがどんなつもりかは……」

「陽平! あなたには、男の責任ってものがあるでしょう?」

 

 叱咤され、ぐっと詰まる。

 母さんは、勝ち誇ったように胸を張った。

 

「貴方たちが初めて結ばれたのは、どこだったか……。お父さんにバレないように、使用人に口留めしてあげてるのは、無責任なことをさせるためじゃないのよ」

「……う」

 

 晶と初めて抱き合ったとき、この家だったのは痛恨の極みだ。

 

 ――あの夜は、成己のことでむしゃくしゃして、上手くフェロモンが制御できなくて……晶が偽発情を起こしちまったんだ。

 

 抱きしめて、宥めているうちに、晶の唇が俺に触れていて……そこから先は、嵐のようで。朝まで、休みなく抱き合っていた俺たちは、起こしに来た使用人に見られてしまったのだ。

 そうなると、母さんにバレるのは必然だった。 

 

「いい? 晶ちゃんと結婚なさい。あなたは城山家のアルファよ。晶ちゃんみたいな良家のオメガが、あなたには合ってるんだから」

 

 母さんは、熱を込めて言う。

 晶との関係がバレて以来、しきりに結婚するようにとせっつかれている。母さんは、昔から晶を可愛がっているから、嬉しいのだろう。大きな損失を被ると解っていて、成己との婚約解消を認めてくれたのも、「晶が息子になる」という期待があったからかもしれない。

 

「わかってる……けど」

 

 煮え切らない俺に、母さんの表情が険しくなる。

 

「もう、はっきりしなさい! なんのために、あの子と婚約破棄したのよ。晶ちゃんを守るためじゃないのっ!?」

「……!」

 

 母さんは叫び、だん、と踵でローテーブルを蹴りつけた。ティーカップががしゃんと音を立て、茶がテーブルに赤く広がった。使用人が慌てて駆け寄ってきて、布巾で拭い始める。

 

「あなたはアルファでしょ! 大切なオメガを守るために、どーして戦うことができないのよぉ!」

 

 母さんの唐突な不機嫌は、いつものことだ。……番である父さんがいなくて、不安があるのだと思う。

 俺は、苛々と髪を掻きむしる母さんに駆け寄り、「ごめん」と謝った。

 

  ――プロポーズすれば、母さんが喜ぶのはわかってる。なのに……

 

 俺はどうしても、「うん」と頷くことが、出来ないでいた。

 胸の奥で、何かが「違う」とざわめくのだ。

 

「俺は……」

 

 言いかけた時、廊下を進む荒々しい物音が聞こえてきた。

 バタン! と壊れんばかりの勢いでドアが開き、誰かが中に飛び込んできた。

 

「――陽平ママ!」

 

 晶だった。

 晶は、俺と目が合うと――静謐な美貌をくしゃりと崩す。真黒い目から、ぼろぼろと涙をこぼした。

 母さんは、俺を突き放すように立ち上がる。

 

「晶ちゃん、どうしたのっ?」

「俺、成己くんがわからないっ……!」

 

 駆け寄った母さんが、泣いてる晶の背を擦った。

 

 ――成己? 成己がどうして……

 

 じっと見守っていると――晶は切れ切れの息で、苦し気に言葉を紡いだ。

 

「成己くん、結婚したんだよ。野江さんと……!」

 

 ――え?

 

 成己が、結婚?

 

「なんですって!? どうしてなのよ!」

「わからない……でも、本当なんだ。どうしよう、陽平……」


 涙を流す晶の肩を、母さんが強く抱く。俺は、その光景を呆然と眺めていた。

 脳裏に、成己の声が再生される。


――『ねえ、陽平――』




 夕暮れの中、俺と成己の影が、伸びている。

 そっぽを向く俺の手を、華奢な手が掴んだ。思いのほか、しっかりとした力に驚く。


「なんだよ?」

「ねえ、陽平。ぼく、頑張るからね」

「え……?」


 はしばみ色の瞳が、じっと俺を見上げていた。しらず、息を飲むと、成己は懸命な様子で言葉を紡いでいる。


「陽平のお父さんとお母さんに、認めて貰えるように。陽平と、ずっと一緒にいたいから」


 はにかんだ笑顔が、夕日に溶けていく……




――あのとき、俺はどう思ったんだ? 俺は……


 

 晶の啜り泣きと、母さんの怒声の響くリビングで、俺は呆然と立ち尽くした。


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