第131話【SIDE:陽平】

 振り返ったその男は、僅かに目を丸め――すぐに、穏やかな笑みを浮かべる。

 

「城山くんじゃないか。久しぶりだな」

 

 悠然と腕を開いて立っている姿に、溢れんばかりの余裕が見て取れて、憤りが増した。

 殴りかかってきたら、ぶちのめしてやるつもりだったのに。

 

 ――こいつは、成己に会いに来たに違いねえ。なら、あいつがどんな状況にいるか、わかっているはず!

 

 あいつを捨てた俺を見ても、へらへらした笑みを浮かべていられるとは。大した「優しいお兄ちゃん」だ。

 不快感から、奴を鋭く睨みつけてやると、その背後の職員が「ひっ」と引き攣れた声を上げた。

 野江は片眉を跳ね上げ、その職員を背に庇うように移動する。

 

「城山くん、無差別に威圧するのは止すんだ」

「あんたこそ、俺に説教なんて僭越な真似はやめろ……それほど、センターの職員に気に入られたいのか?」

 

 鼻で笑ってやると、野江は不思議そうに首を傾げた。

 

「ん? どういうことだ」

「とぼけんなよ。貧乏人が身の丈に合わねえ「買い物」するときは、店員に媚を売るんだろ? 野江家ともあろうものが、いじましい交渉術だな」

 

 野江の片眉がピクリと動く。

 

「気づいていなかったとでも思うのか? あんたが、成己を見る目ときたら! はっ、他人の家のメシを覗き込む犬みてえだったぜ」

 

 なにが「宏兄」だ。なにが、「弟」だ!

 婚約者の顔を潰していることにも気づかず、この野郎に馬鹿みたいに懐く成己に、どれ程むかっ腹がたったか。

 

 ――身の程を思い知れ、三流アルファが!


 てめえでオメガにありつけねえからって、人の婚約者の周りをウロチョロしやがって。 

 絶対に、分際を弁えさせてやる。――残酷な感情が、胸の奥でふつふつと煮えたぎっていた。

 俺は一歩近づくと、野江の腕を軽く叩く。

 

「稼ぎがねえと惨めだな。俺の捨てたもんを、満足に拾う事さえ出来ねえんだから。――ひとつ忠告しとくと、センターの職員に媚を打っても、雇われのそいつらに値下げなんかできねえぞ」

「……」

 

 野江は、きつく唇を結んでいる。大方、悔しさを堪えているのだろう。


 ――ほら見ろ。分別ぶっても、所詮はこんなもんだ。


 俺は、大の男の矜持を踏みにじる残忍な喜びに、笑わずにはいられない。

 

「無駄なあがき、ご苦労さん」

 

 ぐっと顔を近づけて、せせら笑った。自分の目が、ぎらぎらしているのがわかる。胸をせり上げる衝動のまま、このクソ野郎を甚振りつくさなきゃ、気がすまなかった。

 

「惨めだな。成己みてえな「安物」でも、あんたは指一本触れられねえ。……ああ、でも。ひょっとしたら、城山が寄付した分で、少しは値下げされてるか。婚約破棄されたオメガは、市場価値が下がるしよ」

「……っ、なんてことを……!」

 

 野江の後ろの職員が、ついに声を震わせる。

 怒りで真っ青になった顔を一瞥してやれば、ハッとして口を噤んだ。義憤に燃えるなら、最後までやれよと白けていると、野江がそっちを向いて口を開く。

 

「向さん、そのお土産なんですが。アイスクリームなので、お手間ですが冷凍庫に……」

「あ……畏まりました!」

 

 向と呼ばれた職員は、袋を持って事務の奥へ消えていく。この場から逃がしてやったのが見え見えで、俺は鼻白んだ。

 

「君子気取りか?」

「……そんなんじゃないさ」

 

 野江は押し殺した声で、応えを返す。防御するように腕を組んでいるさまは、尻尾をまいた犬だ。俺は、再び興が乗ってくる。

 

「まあいい――野江さん。あんた下らない賄賂なんかやめてさ。なけなしの財産はたいて、足りねえ分は兄貴にでも頼んでみろよ」

「……っ」

 

 野江は言葉もなく、息を詰まらせる。

 情けない姿に満足し――もう一度、腕を叩いてやろうとしたときだった。

 

「……っ……くくっ」

「……?」

 

 野江は肩を小刻みに揺らし、喉を低く鳴らしていた。その姿は、泣いているというよりむしろ……

 

「くく……ああ、もうだめだ!」

 

 怪訝に思って、覗いた顔の下半分は――なんと笑っている。

 

 ――何だこいつ。何を笑ってんだ?

 

 俺は当惑のままに、尋ねた。

 

「なんだ、あんた。おかしくなったのか」

「ふふ。そうだな、おかしいんだよ」

 

 侮辱され、怒るどころか――肩を震わせ、くつくつと笑い続ける野江に、俺はカッとなる。

 

「何がおかしい?!」

 

 野江は、平素通りの穏やかなほほ笑みを浮かべている。しかし、その表情に言い知れない不快を覚えていると――野江は言った。

 

「いや。君こそ、どんな顔してるか解ってるか?」

「……はぁ?」

「無理か。自分で、自分の顔は見えないものなあ。ふふ」

 

 心底愉快そうに肩を震わせる野江に、頭に血が上る。掴みかかろうとした手をするりと躱し、奴が身を寄せてきた。

 

「君はまるで、宝物を失くした子供みたいだよ」

「!」

 

 俺は、息を飲む。

 野江は笑んだまま、俺の肩に手を乗せる。

 

「でもな――」

 

 耳元に囁かれた言葉に、俺は息を飲み――万力で野江を突き飛ばした。

 

「おっと。危ないじゃないか」

「……っ、てめえ……」

 

 怒りで視界が狭くなる。心臓が耳の横に存在するかのように、激しく脈を打つ音が聞こえた。

 

 ――この、クソ野郎……!

 

 野江は変わらず、穏やかな笑みを浮かべている。

 

「俺に八つ当たりするのはいい。だが……くれぐれも、成のことは苦しめないようにな?」

 

 そう言い残し、ゆるやかな足取りでその場を去って行く。二階へ続くエレベータに乗り込む奴を、刺し殺したい気持ちで睨みつける。

 ぎり、と指の骨が軋むほど、拳を握りしめた。

 

 ――あの野郎、よくもぬけぬけと言いやがったな……!

 

 胸の内に、屈辱と憤怒の炎が燃え上がる。

 あいつは、俺にだけ聞こえるように。善人らしい響きの忌々しい声で、こう言ったのだ!

 

『泣いても喚いても、成は戻ってこない。あの子はもともと、俺のものだからな』

 

 

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