第114話

 翌日のお昼前――ぼくは、台所で素っ頓狂な声を上げた。 

 

「あれっ」

「どうした?」

 

 テーブルで執筆していた宏兄が目を丸くする。

 

「ううん。大根、下から持ってくるの忘れちゃって……」

 

 お昼ごはんに、ぶっかけうどんを作ろうと思ってんけど。肝心の、大根おろしのタネを置いて来ちゃった。笑って舌を出すと、宏兄がほほ笑む。

 

「取ってくるよ」

「あ――いいの! 宏兄、お仕事中なんやからっ」

 

 腰を上げかけた宏兄を、慌てて押しとどめる。

 

「いや、俺もそれくらい……」

「ダメっ。お仕事に集中してくださいっ」

 

 宏兄ってば、せっかく執筆中やのに。さっきから隙あらば、ぼくの手助けしてくれようとするんやもん。

 腰に手を当てて厳しく言うと、宏兄は苦笑して、両手を上げた。

 

「わかった、わかった。頑張ります」

「うんっ。待っててね」

 

 にっこり笑って、胸を張る。

 ぼくはエプロンを揺らし、階下にぱたぱたと駆け下りた。

 このときは、後に大変なことが起きるとは、想像もせず――




 

 

「うーん……さすがに、一本もいらんよね」

 

 大きな冷蔵庫から、立派な大根を取り出した。白くずっしりと重いそれを、まな板の上に置く。とりあえず、半分だけ切って、持って戻ろうっと。

 

「~♪」

 

 包丁でストンと切り落とすと、断面から爽やかな匂いが立った。今日は蒸し暑いから、さっぱりしたおうどんで体力増強や。

 

「宏兄も楽しみって言うてくれたし。美味しいのつくらなきゃっ」

 

 うきうきしながら、残りの大根を冷蔵庫にしまう。

 そのとき、お店のインターホンが鳴った。

 

「はーい」

「まいど、宅急便ですー!」

 

 受話器を上げると、快活な声が聞こえてくる。カメラに人影は写っていないけど、四角い箱が見切れてた。

 ――宅急便。何か頼んでたかなあ?

 いそいそとシャッターを開け、外に出たぼくは、ぎょっとして叫んだ。

 

「――わあっ!?」

 

 手首を掴まれて、引っ張られる。たたらを踏んだぼくは、誰かの腕の中へ飛び込んだ。

 

「成己さん、おはよ!」

「……あ、綾人さん!?」

 

 快活な笑顔が真上にあって、ぼくは目を見開いた。

 その人は――紛れもなく、お兄さんの婚約者の、綾人さんやった。

 

「どうしてここに!?」

「やだなー。昨夜、連絡したじゃんか」

「れんらく……あっ」

 

 ちちち、と指を振る綾人さんに、合点がいく。そう言えば――昨夜、綾人さんから謎のメッセージが届いてたんやった。

 

「今日、迎えに行くって書いてあったろ?」

「……ああ!」

「今日、朝匡いねーんだ。だから、いっぱい話せると思って!」

 

 にこにこと、無邪気な笑みを浮かべる綾人さんに、ぼくはたじたじになってしまう。

 

 ――時間とか、何も書いてなかったから、てっきり冗談やと思ってた~!

 

 嬉しそうな笑顔に、罪悪感が湧きおこる。でも、さすがに急に出かけるわけに行かへんから。まず、宏兄に相談して…… 

 

「綾人さん、ちょっと待って――」

 

 踵を返しかけた刹那、がし! と腕を掴まれた。

 

「そうと決まれば、さあ行こう!」

「えっ!?」

 

 ぼくの腕を引いて、綾人さんはだっと駆けだした。

 凄い力! ――ぐんぐんと腕だけエンジンがついてるみたいに、前へ進んでく。 

 みるみるうちに、うさぎやが遠ざかって、ぼくは泡を食って叫んだ。

 

「まって、綾人さん! せめて、宏兄に――」

「だーいじょうぶ! いいから行こうよ!」

 

 通りに出た瞬間、綾人さんは停めてあったタクシーにぼくを乗せた。ぐいぐいと奥へ押し込むように綾人さんも乗り込んで、ばたん! とすぐにドアが閉まった。

 

「おじさん、街まで!」

「あっ、ちょ――綾人さん!?」

 

 綾人さんの号令で、タクシーが急発進する。窓に取りつくも、時すでに遅し。景色が飛ぶように遠ざかっていく。

 

 ――うそ……!?

 

 ぼくは、エプロンに健康サンダルのまま――生れて初めてのタクシーに乗って、呆然とした。

 

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