第106話

 ピリリリ……!

 突如響いた着信音に、緊張していた空気が、一気に解ける。

 

「悪い、宏章。俺だ」

「……ああ」

 

 宏兄が促すと、お兄さんはスマホを取り出して、お店の外へ出て行った。――ばたん、とドアが閉まる音が響く。

 

「……ぁ……」

 

 ぼくはその瞬間、からだの硬直が解けた。殆どいきおいでドアノブを捻って、お店に足を踏み入れる。

 

「成」

 

 振り返った宏兄に、ぼくは咄嗟に笑顔を返す。手に持っていた冷えピタを、かざして見せた。

 

「あ……おまたせ! 冷やすもの持って来たよっ」

「おっ。ありがとうな」

「お兄さんは、どこに?」

 

 ほんとは知ってるのに、白々しく尋ねる。そうと知らない宏兄は、穏やかにほほ笑んだ。

 

「兄貴は外だ。さっき電話があってな」

「そうなんや。じゃあ、戻って来はったら、手当てせなね」

「それは、俺がやる。お前の手がもったいないからな」

「もう」

 

 ……宏兄の笑顔は、いつもと変わらなく優しい。まるで、さっきの話なんか、なかったみたいやった。

 ぼくも、笑顔で話しながら……すごく動揺していた。

 

 ――どうしよう、宏兄……

 

 つい、知らないふりをしてしまったけれど――本当は、宏兄とお兄さんの会話が、頭から離れない。

 ぼくは、そっとお腹に手を当てた。

 

――『咲いていないオメガ』。

 

 このままだと発情期が来ないかもしれないって、中谷先生に言われたこと。伝えたら……お兄さんは反対するかな。そうしたら、ぼくはどうしたらいいんやろう。

 

 ――また、宏兄とも離ればなれになっちゃうのかな。

 

 きゅっと痛んだお腹の上で、手を握りしめる。

 

「成?」

 

 すると、宏兄が不思議そうに、ぼくを覗き込んでいた。

 

「宏兄?」

「どうしたんだ。不安そうな目をして」

「……!」

 

 そっと腕を引かれ、宏兄のシャツに頬がくっついた。穏やかな木々の香りに包まれて、慌てて高くにある顔を見上げる。

 

「宏兄っ、お兄さんが戻ってきたら……」

「だめだ。離さない」

「あっ……」

 

 腰に回った長い腕に、ぎゅっと力がこもる。つま先立ちになったぼくは、宏兄のシャツにしがみつくほかなくて。

 

「大丈夫だ。兄貴のことは、なにも気にするな」

「で、でも……」

「俺とお前は夫婦なんだから」

 

 こつんと額がくっついた。切れ長の目がやわらかく細まるのを、ぼくは呆然と見つめる。

 

「宏兄……」

「成」

 

 抱えあげられたまま、見つめ合っていると――表で、騒がしい物音がした。

 

「――馬鹿か、お前は! まさか、一人でここに来たのか!?」

「馬鹿とはなんだ! あんたが、黙って行くからだろ!」

 

 鋭い怒鳴り声は、お兄さんのもの。その後に、澄んだ怒鳴り声が続いた。――こっちは、聞き覚えがない。

 ぼくと宏兄は、顔を見合わせる。

 

「……どうしたんやろう?」

「ああ……嵐かもな」

 

 宏兄は、少し遠い目で言う。嵐って、お天気は悪くなさそうやけど…?

 その間も、激しい言い合いはやまらず、ヒートアップしていた。

 

「お前には関係ない。何にでも首を突っ込んでくるな!」

「何だよ? 未来の家族に、会ってみたくて悪いかよ!」

 

 すりガラスのドアの向こう、二つの人影がとっ組み合っているみたいやった。

 お兄さん、あんなに怒鳴ってどうしたんやろう? それに、もう一人もとても怒ってるみたい。

 すわ大喧嘩になりそうな様子に、ぼくは慌てた。

 

「ひ、宏兄っ。どうしよう」

「ああ、まあ大丈夫だよ。いつもの事だから、心配いらない」

「えっ?」

 

 なぜか、宏兄はすっかり落ち着いていて、訳知りの様子で。ぼくを抱えたまま、三歩くらい後ろに下がった。

 次の瞬間、バン! とお店のドアが開いた。

 

「お邪魔しまーす!」

「あッ、この馬鹿!」

 

 お兄さんともつれ込むように入ってきたのは、細身の青年だった。

 敏捷そうな体つきに、よく日に焼けた肌。精悍さが際立った、整った顔立ち……

 

 ――このこ、オメガや。

 

 花の紋様はどこにも見当たらへんし、首輪もしてないけど――勘が訴える。

 見知らぬ青年と、ぱちりと目が合った。彼はにかっと笑顔になって、大股にこちらに近づいてくる。

 

「初めまして! オレ――」

「待て、馬鹿!」

「ぐえっ」

 

 距離が一メートルまでに近づいたとき、お兄さんが彼の首根っこを掴んだ。

 

「何すんだよ!」

「初対面の相手に無闇に近づくな。オメガとしての自覚を持て!」

「うるせー、そればっか。関係ねーだろ!」

 

 また言い合いが始まり、ぼくはポカンとしてしまう。

 すると――ぽん、と肩を抱かれる。

 

「……ごめんな、成。驚いたろ」

「宏兄。あの方は、いったい……?」

 

 呆れ顔の宏兄が、やれやれと言った調子で言った。

 

「ああ、あの人は……兄貴の番なんだ」

 

 ……番。お兄さんの……っていうことは、彼もぼくのお兄さん!?

 

「ええっ!?」

 

 

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