第105話
お兄さんは、がばっと眉を上げていた。
まん丸に見開かれた目が、ぼくと宏兄の間を、せわしく行き来し――ふっと笑った。
「担ごうとしたって、無駄だぞ。この子、どう見ても小学生くらいだろうが」
「……!」
し、小学生は、三年ぶりに言われた……! がーん、とショックをうけていると、宏兄が米神を引き攣らせる。
「兄貴。この子が正真正銘、俺の大切な伴侶だ」
「なにっ。宏章、おまえ……いつの間に、ショタコンになったんだ!」
「……あのなあ、あんまり言うと怒るぞ」
お兄さんの言葉に、宏兄の声が二オクターブくらい低くなる。
ぼくは、おろおろと二人を見比べ、声を上げた。
「あの、宏章さんの言う通りなんです。ぼくは、本当に十九歳ですから……!」
「ええ?」
お兄さんは、怪訝そうに首を傾げた。
――うう、信じてくれてない……
そうだ、と閃く。センターの身分証明書を見せれば、わかってくれるに違いない。部屋の引き出しにあるそれを、取りに行ってこなくちゃ――ひとこと断ろうとした。
そのとき、
「信じがたいな。――どれ?」
ぐい、と腕を引かれる。
あんまりおもむろで、気が付くと立派なスーツの胸元に、顔から飛び込んでいた。頬を打って、「ふぎゅ」と潰れた悲鳴が漏れる。
「あ、あの……!?」
「静かに」
咄嗟に身じろごうとした体を、ぎゅっと抱かれる。ふわり、と大人っぽい香水が、鼻先をくすぐった。
――……あれ? フェロモンの匂いがしない。
驚きに目を瞠った、次の瞬間。ぼくのつむじに鼻先が埋まり……すう、と息を吸われる感覚があった。
――嗅がれてる。
そう気づいて、羞恥に顔が燃え上がった。
「わああっ」
「ん? これは……」
「――兄貴!」
宏兄が、怒鳴った。
ボカっと鈍い音がして――からだが、思いきり後ろに引き寄せられる。温かな森の匂いがした。
「宏兄っ」
「おい兄貴、成に何をしてくれてんだ!」
ぼくを腕に抱いたまま、宏兄がお兄さんを睨みつけている。
ぎゅっと、守るように抱きしめられて、とくんと鼓動が跳ねる。
「大丈夫か? ごめんな、兄貴の馬鹿が」
「あっ……大丈夫! それより、お兄さんが――」
ハッとわれに返ったとき、背後で呻き声が聞こえた。
「つ~……宏章てめえ、グーで殴りやがって」
顔を顰めたお兄さんが、頬を押さえている。宏兄は仁王立ちのまま、低い声で言った。
「自業自得だろ、セクハラ野郎」
「まあ、な……なあ、春日さん」
「あ、はいっ」
名を呼ばれ、慌ててしゃんと背筋を伸ばす。すると、お兄さんはばつの悪そうな顔で、「すまなかった」と言った。
「えっ」
「子どもだと思って、失礼な真似をしてしまった。本当に妙齢のオメガとは……」
「あ、いえ……! ぼく、よく間違われますので」
綺麗な角度で下げられた頭に、慌ててしまう。
「言っとくが、子ども相手でも問題だからな」
「ぐ……わかってるよ」
宏兄の指摘に、お兄さんはがくりと肩を落とした。宏兄のパンチで赤くなった頬が目を引いて、ぼくはハッとする。
「あのっ。ぼく、保冷剤持ってきますね」
「いいよ、成。気にしなくて」
「だめッ」
ぼくのせいで、宏兄がパンチしたんやもん。この決着はぼくがつけなくっちゃ。
大急ぎで、カウンターに回り込んで冷凍庫を漁ってみる。ちょうど、梱包用の硬い保冷剤しかない。比較的やわらかそうなのは、鶏肉くらいや。
――そうだ。二階に、冷えピタがあったはず……!
大慌てで二階に駆けあがって、薬箱から冷えピタを調達する。お店の方に戻ってくると……話し声が聞こえてきた。
「――なあ、宏章。どういうことだ?」
「何がだ」
深刻そうな声音に、ドアノブを握る手がピタリと止まる。
「フェロモンを嗅いで、わかったが。あの子の体、まだ咲いてないだろう」
「……!」
お兄さんの言葉に、息を飲む。
たしか――「咲く」と言うのは、「オメガが性成熟を迎える」とことの比喩やったはず。
強いアルファほど嗅覚が優れていて、様々なことを嗅ぎ分けられるって、聞いたことがある。さっき少し嗅いだだけで、そこまで――?
「ぁ……」
カタカタと、からだが震える。
体のことは、義務として話さないとって思ってた。でも……いざ知られてしまうと、恐怖に身が竦む。
――どうしよう……やっぱり、許して貰えない……?
ご家族からしたら、心配に決まってるもん。ぼくみたいなオメガを、大切な弟が引き受けるとなったら。
――『陽平ちゃんは、あなたのせいでずっと我慢してたのよ!』
――『お前みたいな欠陥品、妻にするアルファなんかいねえんだよ……』
「……っ」
怖い。
そこから離れることも、中に入ることも出来ず、立ち尽くしてしまう。
「あのな、兄貴。俺は……」
宏兄が、口を開いたとき――ピリリリリ、と鋭い着信音が鳴り響いた。
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