第99話

「おはよう、成」

「あ……! おはよう、宏兄っ」

 

 台所へ入ってきた宏兄に、早口に挨拶を返す。昨夜、抱きしめられて眠ったのを思い出して、頬が熱くなった。

  

 ――うわぁぁ。恥ずかしい……!

 

 宏兄の顔が見られなくて、すぐにフライパンに向き直る。

 ぼくはドキドキしてるのがバレないよう、明るい声で言った。

 

「えと。朝ごはん、もう出来るよ。シャワー浴びてきてね」

「おう、ありがとう。いい匂いだなー」

 

 上機嫌にお風呂場へ向かう背中は、汗に濡れていた。

 宏兄は、ジョギングに出てたみたいなん。目が覚めたら、ベッドが空っぽでね。朝ごはん作って待ってようって、うきうきしてたはずなんやけど。

 

 ――……やっぱり、顔見たら照れちゃうなあ……。 

 

 宏兄に抱っこされることなんて、今までもあったのに。

 妙に意識しちゃうのは――やっぱり、宏兄の「お嫁さん」になったからかなあ。

 

「はあ……」

 

 台所にフェロモンの残り香を感じ、ふうと深く息を吐く。

 

 ――宏兄は、平然としてるのに。ぼくって子ども……

 

 これが、人生経験値の差やろか。

 頬に手を当てて、うーんと唸っていたら……ジュー! と不穏な音が響いた。

 はっ、とフライパンを見れば――「香ばしい」を過ぎ去ったベーコンエッグが、煙を上げている。

 

「わ~っ!!」

 

 

 

 

 十数分後――

 

「うまいなー」

 

 シャワーを浴びてさっぱりした宏兄が、にこにことご飯を頬張っている。

 

「良かったぁ……お味噌汁とごはん、良かったらおかわりしてね」

「サンキュ……どうした? こそこそして」

「う、ううん。なんにもないよっ」

 

 ぼくは、ぶんぶんと首をふる。

「何も問題ありません」と言うふうに笑いつつ……お味噌汁のお椀の陰で、こんがりしたベーコンエッグを隠すのは忘れへん。

 

 ――これはぜーったい、見せられない……!

 

 米神を、たらーと冷や汗が流れる。

 あんまりお料理得意じゃないの、ばれたくないもんね。不思議そうな宏兄の気を逸らす為、話題を変える。

 

「そ、そう言えば……宏兄って、ジョギングしてるんやね」

「ああ」

 

 宏兄は、頷く。

 聞くところによると、執筆活動の一環でジョギングしてるみたい。運動すると頭がすっきりするから、物語の展開に困ると、走るかお風呂に入るかするんやって。

 

「深夜に走ると、職質されちまうんだよ。よっぽど、鬼気迫ってんのかなー」

「あはは。作家さんは大変やねえ」

 

 不可思議そうに頭をかく宏兄が、おかしい。

 くすくす笑って、冗談を言う。

 

「でも、そうやねえ。真夜中に宏兄が走ってたら、熊が出たー! って逃げるかも」

「お、言ったな。――地の果てまで追いまわしてやる!」

「やあ、怖すぎるよっ」

 

 宏兄は腕を獣のように構えて、にやりと物騒な笑みを浮かべた。やたら迫力のある演技に、ますます笑いがこみ上げてくる。ほんまにノリがいいというか、冗談が好きなんやから。

 

 ――宏兄ってば、森のくまさんみたい。

 

 笑ってるうちに、胸がすうっと軽くなってく。胸に凝っていた緊張がほどけて、心がふんわりとあったかくなった。

 涙の滲んだ目尻を拭って、にっこりする。

 

「ね。くまさん、おかわりはどうですか」

「ありがとう、成さん」

「ふふっ」


 

 

 ご飯を食べ終わって、宏兄の入れてくれたお茶を飲む。和やかに、談笑していると……宏兄が、ふと思い出したように「あっ」と声を上げた。

 

「そういえば……あのさ、成」

「なあに?」

 

 改まった様子に、ひょっとしてお仕事の話かな? と居住まいをただす。

 

 ――ふふ、こんなこともあろうかと、ポメラ充電してあるんよ!


 何百枚でも、どんと来いですよ。 

 わくわくしながら待ってたら、宏兄が真剣な顔で言う。

 

「近々、兄貴が会いに来たいらしいんだ。お前に」

 

 口に含んだお茶を、噴き出しそうになってしまった。

 

 

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