第45話

「大丈夫か、成。何があった――それに、城山くんは?」

 

 心配そうに、宏兄はぼくの前に膝をついた。肩に乗せられた大きな手から、じんわりと温かさが沁みてくる。――それで、動揺していた心がちょっと落ち着いてきた。

 

「大丈夫」

 

 ぼくは、くしゃりと崩れそうな顔に力を込めて、なんとか笑った。

 

「陽平は、先に帰っちゃった。ちょっと言い合いになって……そんだけやねん」

「成……」

 

 宏兄は、顔を曇らせる。――そっと引き寄せられて、広い胸に抱えられてしまう。片頬で、シャツ越しのあたたかな体温を感じ、目を瞬いた。

 

「宏兄?」

「辛いなら、泣いても良いんだぞ」

「……!」

 

 ぎゅっ、と背中に腕が回る。

 幼いころのように抱きしめられた途端、心まで昔にかえっちゃいそうになった。喜びも悲しみも、ぜんぶ宏兄に委ねていたあのころに……

 

 ――いま、このときだけでも……宏兄に甘えて、泣いてしまえたら。

 

 でも――ひっく、と漏れかけた嗚咽を、なんとか飲み下す。温かな胸を押して、笑った。

 

「宏兄、ありがとう……大丈夫っ」

「成……」

「ぼく、ケンカくらいで負けへんよ。やから、宏兄……大丈夫って言うて。そしたら、頑張れるから」

「……」

 

 ぼくは、にっこり笑う。――きっと、頬の筋肉を総動員しただけの、ぶさいくな笑顔や。

 それでも笑わなきゃ、と思う。でないと、背中に回された宏兄の腕が、温かくて……それだけで、心が折れそうになるから。

 

 ――ぼくは、もう子供やない。ちゃんと、頑張らなくちゃダメ……!

 

 宏兄は、痛ましそうに眉根を寄せている。それでも、深く息を吐き――長い睫毛を伏せて「わかった」と頷いてくれた。

 

「成は、大丈夫だ――」

「……っ」

「必ず、全部うまくいく。俺が、保証する」

 

 大きな手が、ぽんぽんと背を叩いてくれる。優しいリズムに、胸の奥がほんのりと温められた。

 

「ありがとう、宏兄……」


 頬で凝っていた、涙の予感が遠くなって。ぼくは、やっと本当にほほ笑んだ。







 それから――宏兄は、ぼくを家まで送ってくれた。

 「無理しなくていい」って、心配してくれたけど。ぼくが、帰りたいって言うたんよ。


「陽平、先に帰ってるかもしれへんから。それなら、話し合いたいし。家に居たほうがええかなって……」

「そうか……偉いなあ。でも、何かあったらすぐ言うんだぞ」

「うんっ、ありがとう」


 心配そうな宏兄に、にこっと笑う。助手席におさまって、流れていく景色を見てたぼくやけど――ふいに、ハッとする。


「あ――ねえ、宏兄っ」

「ん?」

「蓑崎さんは、大丈夫かな。陽平と一緒に来てたみたいやけど……」


 色々あって、すっかりと頭を抜け落ちていた。陽平は先に帰ってしまったから……一人になってしまったんとちゃうの。

 慌てるぼくに、宏兄は「ああ」と頷いた。


「彼なら平気だよ。婚約者が来ていたみたいで、あの後合流してたから」

「婚約者?!」


 予想外の言葉に、目を見開く。


「お相手は、仕事の予定だったけど、急いで終わらせてきた――そんな感じだったな。ともかく、彼のことは心配いらない」

「そうやったんや……」


 宏兄の説明に、ほっと息を吐く。婚約者さんがいてるなら、確かに安心なんやろう。


――それにしても。お仕事を急いで終えて、駆けつけてくれるなんて……意外と、優しい人なんやろか……?


 その後、車は恙無く走り――マンションに到着する。


「宏兄……今日、本当にありがとうね」


 車を降りて、ぺこりと頭を下げる。宏兄は穏やかに言う。


「これくらい、何時でも」

「ふふ……ねえ、明日はお店、どうするん?」

「あー……明日は開けるつもりだが……しんどかったら無理するんじゃないぞ」

「ううん、行きたいっ。だめ?」


 たくさんお世話になってるから。ぼくも、なにか返したかった。意気込むぼくに、宏兄は目を細める。


「わかった。じゃあ、また迎えに来るな」

「ありがとう……! 宏兄、気を付けて帰ってね」


 笑顔で手を振ると……ふいに、宏兄が言う。


「なあ、成……あんまり我慢するなよ」

「え?」

「お前がいい子だから、俺は心配だ」

「宏兄……」


 言葉を失うぼくに、宏兄は穏やかにほほ笑む。「行きな」と促されるまま、別れを告げる。


「……あっ」


 でも、マンションに入って振り返ったとき――走り去っていく車が見えて。なんだか、すごく優しさがしみて……ぼくはしばらく立ち尽くした。


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