第10話

 もう、もう……陽平のやつ!

 ぼくは、憤懣やるかたない気持ちで、スマホを鞄に突っ込んだ。まだ、陽平の苛立たし気な声が、ぐるぐると心にとりついて離れへん。

 

「蓑崎さんが邪魔やなんて、言うてないやんっ。ぼくはただ……」

  

 もっと、二人きりの時間が欲しいって――それだけなんやって、なんでわかってくれへんのやろ。それとも、陽平はぼくに対して、ちっともそういう気持ちがないの?

 ぐっと唇をかみしめたとき、鞄の中のジュンク堂の袋が目に入った。

 

 ――あっ、桜庭先生の新刊……

 

 二人でずっと楽しみに待ってた、シリーズの下巻。

 センターに行く前に受け取りに行って……そのときは、陽平とケンカするなんて思ってなかった。

 顔見知りの店員さんが、わざわざサイン本をとっといてくれたんよ。「陽平、喜ぶやろうなぁ」って、ワクワクしてたはずやのに。

 

「……はあ」

 

 とさ、とパイプ椅子に腰を落とす。

 怒りがしゅるしゅると萎んで、とっぷりと悲しい気分になってきた。

 ……やらかしちゃったのかな。ただでさえ、すれ違いが多い生活やのに。わざわざケンカせんでも良かったのかも。

 

 ――ぼくのアホ。初心を忘れないって、思ったとこやったのに……

 

 しょんぼりと本の袋を撫でていると――カチャ、と控えめな音を立ててドアが開く。

 

「成、いいか?」

「あっ……宏兄」

 

 ぼくは、慌てて笑顔を作った。

 宏兄は、不思議そうに片眉を跳ねさせて――ドアを開け放すと、穏やかな声で言う。

 

「立花先生がさっきいらっしゃったんで、品物をお渡ししたよ。お前に「よろしく」って言ってた」

「えっ! どうして」

 

 呼んでくれたらよかったのに――

 目を丸くするぼくに、宏兄はすまなそうな顔になった。

 

「ごめんな。その、取り込んでるのかと思って、声を掛けなかった」

「!」

 

 痴話げんかが聞こえていたと言外に知らされ、頬が熱を持った。

 

「ご、ごめんなさい、騒がしくしちゃって」

「あ、いや――いいんだ。気にするな」

 

 恥ずかしさに項垂れていると、ドタバタと宏兄が歩み寄ってきて、背をさすりだす。「大丈夫だから」と、優しい声で励ますように、何度も言いながら。

 

 ――宏兄……かわんないなぁ……

 

 大きい手が背骨の上を行き来するたび、たちまち子供に戻ったような気持ちになる。

 小さなころ、ぼくがぐずると宏兄は決まってお膝に乗せてくれて。「大丈夫だよ」って今みたいに背をさすって、辛抱強くあやしてくれたんだよね。

 ぼくは、顔を覆った手のひらの中で、ぎゅっと目を閉じる。

 それから、ぱっと顔を上げて笑った。

 

「ありがとう! 復活しました」

「そうか? 何かあったなら、言ってくれよ」

 

 宏兄の顔中に「心配だ」って書いてあった。大ざっぱな割に、心配性の宏兄らしい。

 ぼくは、にっこりと力強く頷く。

 

「ううん。ちょっとぼくが、ワーワー言うただけなん。明日には、けろっとしとるから」

「そうか……?」

 

 宏兄は何か問いたげにしつつも、頷いてくれた。

 ほっとして、胸をなでおろす。ぼくも大人やし、恋人とのささいなケンカくらいで、心配かけたくないもんね。

 

 

 

 

 

「長居しちゃった。ぼく、そろそろ……」

「なあ、成」

 

 お暇しようかと腰を上げたとき、宏兄がふとぼくを呼び止める。

 

「ん?」

「この後、ちょっと時間あるか?」

 

 穏やかな目に見つめられ、ぼくはきょとんとする。

 時間……というと、余ってるくらいだ。ケンカをしたあとで、陽平は帰ってこないだろうし。何より、ぼくも一人の家にいたくない。

 ぼくは、意気揚々と鞄を肩から下ろした。

 

「ぜんぜん大丈夫やで! お店の仕込み、するん?」

「いや。あのな……実はこのところ、かなり書けたんだ。だから、成に”あれ”を頼みたくてさ」

 

 宏兄は照れくさいような、誇らしいような表情で、しきりに顎を擦っていた。

 ――書けた。

 言葉の意味を飲みこんで――ぼくは、ぱっと胸に花が咲いたみたいになる。

 

「うんっ、もちろん!」

 

 それは、半月ぶりの「お手伝い」の依頼だった。 

 何度も頷くと、宏兄はぱっと明るい顔になる。

 

「ちょっと待っててくれ! 原稿を持ってくるから」

 

 どたばたと二階の居住スペースへ、階段を駆け上がる音がする。

 ぼくは、わくわくした気持ちで、鞄からポメラを取り出した。ここ半月、出番はなかったけど、お店には欠かさず持ってきていた。

 いつ、出番があるかわからなくても、その時をぼくが心待ちにしていたから。

 

「――待たせた!」

 

 息を切らした宏兄が、机の上にどさどさと大量の原稿用紙を投げ出した。どれも、力一杯文字を書きつけられて、その名残かよれていたり、鉛筆が擦れて黒く汚れていたりする。

 

「宏兄、いつもどおりでいい?」

「ああ、頼む。全部じゃなくていいぞ。また、あとで直しが来ると思うし……」

「いいよ! そしたらまた打つもん」

 

 申し訳なさそうな宏兄に、ぼくは心からにっこりする。

 

 ――だって、これは宏兄によって磨かれている宝石なんだもの。

 

 うずうずした気持ちで、一番上の一枚を手元に引き寄せた。

 原稿用紙の枠外に、いつもどおり右肩上がりの文字の署名がある。

 『桜庭宏樹』――宏兄の、もう一つの名前が。

 

 

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