第2話

 食べ終わるともう午後二時近くになっていた。会計を済ませてカフェを後にすると、さっそく稔の行方を調査しようと動き始める。まず車は調べるのに向かないから一度アパートへ戻り、徒歩で笠江町まで向かう。笠江町の商店街は謎の店が多くあり、稔がその周辺にいる可能性は高い。稔らしき人物がいないか歩いて見て回ることにしよう。

 日曜の昼の商店街は平日よりは賑やかだ。向こうから来る三人の男子学生は食べ歩きをしながら談笑し、私と同じくらいの年と思われる女性二人は個性的な服が揃う店の前でロングスカートを合わせて話し合っている。小学生くらいの女の子を連れた三人家族が私の横を通り過ぎ、楽しそうに笑う声が遠ざかっていく。その他の様々な雑音が飛び交っているここは、私にはうるさすぎる場所だ。私はアパート近くの小さな公園の方がずっと落ち着くし好きだった。

 商店街を十五分ほど適当に歩き続けていると、ゲーセンの前で中学生らしき男の子が大人の男性と一緒にいるのを見かけた。だがそれは稔ではなく、ただの知らない親子だった。楽しそうに笑いながら喋っているのを横目で見ていると、胸の辺りがキリキリと痛んできた。近くを早歩きで通り過ぎ、また稔を捜し始める。

 商店街に並ぶ焼き栗の甘い匂いが漂ってきた。秋と言ってもまだ夏の暑さが残る気温に嫌気が差す。もう日が暮れる時間は早くなってきたが、昼の温度は未だ三十度近くある。湿度が高いせいで蒸し暑く、外にいるだけでイライラする。早く帰ってエアコンの効いている部屋でゆっくりしたい。稔が素直にどこで遊んでいるのか教えてくれればこんなことをする必要はないのに。見つかるかも分からないし、適当に歩いて帰ってしまおうか。

 ふと遠くに目を向けると、何やら前を歩く男性たちが揃って同じ方向を気にしてチラ見していた。カップルと思われる二人の内の女性は誰かを見ている男性の腕を引っ張って不機嫌になっていた。中にはがっつり見て何か話し合っている男たちもいた。有名人でもいるのだろうかと男たちの視線を追って見てみる。途端、私は零れ落ちるほど目を大きく見開いて声を上げていた。

「み、美代子!」

 団子屋の前の長椅子に座っている長い黒髪の美女。それは、紛れもなく美代子だった。二年前と全く変わらない綺麗さを保ったままの、その場にいるだけで映画のワンシーンのような雰囲気を作り出す彼女は、私に気が付いてふわりと優しい笑みを見せた。

「あら。浩明さんじゃない」

 周りの視線を感じながら、ゆっくりと彼女の傍へ近づいていく。そして隣に静かに腰を下ろすと、美代子のいい香りを感じて泣きたくなった。二年前までは、私はずっとこの人の隣で幸せに暮らしていたはずだった。稔もよく笑う子だった。私はそれだけで十分幸せだったはずなのに。

 いつの間にか周りの人たちはバラバラに散っていき、団子屋の前は私と美代子だけになっていた。通り過ぎていく人並みを眺めながら話題を探す。

「なんで、ここに」

「住む場所を探しているの。でもあなたがいるのなら、この近くには住めないわね」

 穏やかな口調で淡々と話す美代子は、あの頃と何も変わっていないように思えた。ただ、変わっていないのは表面だけで、本当はたくさんの変化を内に秘めている。横目でちらりと美代子のお腹を見ると、大きな膨らみが目に飛び込んできた。

「それって」

「ん?」

 一瞬きょとんとしたが、私がお腹を見ていることに気が付き、自分のお腹を見て優しく撫で、美代子は嬉しそうに幸せそうに声を少し弾ませて言った。それは何となく、私といた時よりも楽しそうに見えてしまった。

「ああ、赤ちゃんができたの。今度も男の子なんですって」

 私は何も言えなかった。何を言うべきか分からなかった。おめでとう? 別の男との子供を素直に喜べるほど私はできた人間ではない。このことを稔が知れば稔は取り乱すかもしれない。稔はずっと美代子に、母に会いたがっていたから。

 暫くの沈黙の後、美代子は思い出したように口を開いた。

「稔は元気にしてる?」

 それは決して私を馬鹿にしたり軽蔑したりしているわけではなかった。ただ私にとってその質問は何よりも心を抉るもので、心臓を握り潰されたかのような苦しみに襲われた。私は美代子の整った笑顔を直視できず、ゆらゆらと揺れる地面を見ながら嘘を吐いた。

「……ああ。友達と出かけてるよ」

「そう」

 ぎゅっと手を強く握り締める。ごめん。ごめん美代子。私はダメな父親なんだ。一人息子を引き取ってもまともに育てられない。せめて日付が変わる前には帰りなさいと何度か注意したが全く話を聞いてくれない。もうどうすればいいのか分からないんだ。私はどんな風に接するべきだったんだ? なあ美代子。教えてくれ。

「あ、おかえりなさい」

 その声に釣られて顔を上げると、美代子の前に一人の男が立っていた。黒縁メガネをかけた少し怖い雰囲気の人だった。ただ、私と違ってしっかりしていそうで、居心地が悪くなって少し背を丸める。私と同じくらいか少し年上と思われる男性は、私を見て眉間に皺を寄せた。

「誰ですか?」

 威圧感のある声と表情に一瞬で怯んでしまう。怖くて声が出しにくくなってしまったため、何か言おうとしても掠れた声が喉奥から漏れるだけだった。

「わたしの前の夫よ。偶然会って、少し話をしていたの」

「そうか」

 穏やかな声でそう言うと、男性は私の隣に座った。私は美代子と美代子の今の夫に挟まれることになった。どうしてそこに座ったのか理解できず、私は男性を下から覗き込みながら恐る恐る声を掛けた。

「あの、どうしてそこに……」

 男性はちらりと私の方を見、突然温かい缶コーヒーを渡してきた。渡された缶コーヒーと男性を何度も見比べていると、男性は優しい笑みを浮かべて「あげますよ」と言った。掌に缶の熱が広がり、徐々に体の中へ温かみが浸透していくのを感じる。

「あなたにとったら、私は妻を奪った憎い相手だと思います。でも私は、あなたと敵対したいなんて思っていません。むしろあなたのことを知りたいと思っています」

 第一印象の怖さなんて微塵も感じさせないその優しい声に、私の胸の内がきゅうと締め付けられるのを感じた。多分、初めは私のことをナンパか何かだと思ったのだろう。

「何か悩み事があれば、私でよければ力になりますよ」

 手が火傷するくらい缶コーヒーから熱が伝わってくる。同時に目頭が熱くなって下唇を噛んだ。

「ありがとう、ございます。気持ちはすごく嬉しいんですけど、その……」

 今の私には元妻の現在の夫に対して話ができるほどの余裕はないのです。どうしても過去の罪悪感や後悔が蘇ってきて平常心を保てなくなる。あなたのような心の広い、優しい人ならば妻は幸せな生活を送れるでしょう。私では作れなかった幸せな家庭を築いていってください。お子さんを、幸せに育ててあげてください。私にできなかったことを、あなたが美代子やお腹の子にしてあげてください。それだけで十分です。私にまで優しくする必要はありません。その優しさは妻たちに与えてあげてください。

 首元まで込み上げてきた涙を必死に飲み込み、それを隠すようにすっくと立ち上がって二人に背を向ける。そこで一度振り返り、コーヒーだけ男性に手渡してその場を去ろうと軽くお礼を伝えた。

「ありがとうございました。これ、返します」

「えっ、どうして」

 男性は受け取った缶コーヒーを一度見てから私に視線を移した。美代子も目をぱちくりさせて不思議そうに私を見つめている。その二人の視線に身体を強張らせながらも、私は震える声で言う。

「すみません。すごく、すごく嬉しかったです。でも、私にはいただけません。ごめんなさい」

 深々と頭を下げる。二人の顔を見たくなくて、頭を下げて地面を見続けた。すると、上から男性の温かい低音が響いた。

「顔を上げてください」

 ゆっくりと上げると、男性は変わらない微笑みを浮かべていた。隣では眉を下げて不安げに私を見つめる美代子がいた。

「大丈夫ですよ、謝らなくても。私の方こそ、初対面で色々と言ってしまって申し訳ない。これから少しずつ仲良くしていきましょう」

 私の前に右手を差し出す男性。彼は私なんかと違い、ずっと大人の男性だった。まだまだ大人になり切れない私が美代子と釣り合うわけがなかった。差し出された手に自分の右手を重ね、彼に強く握られた手を眺める。ごつごつと固い彼の手に包まれ、私は安心してしまった。自分の手がとてもちっぽけなものに見えて、この場を今すぐ逃げ出したい思いに駆られる。

 彼が手を離すと、私は逃げるようにその場を去った。男性と美代子が何か言おうとしていたが、気付いていないふりをして逃げた。賑やかな商店街を抜け、広い道路へ出る。そこにも人がいて、落ち着けない私は足早に湯雁町へ戻った。今日はもう稔のことはいい。美代子に男がいて、子供もできて幸せそうな姿を見てしまっただけで疲れた。

 優しい人を見つけられてよかった。きっと、美代子は幸せな暮らしができているだろう。私が心配する必要は一ミリもない。私は彼女のことを早く忘れて稔を育てることに専念すべきなのだ。おめでとう、美代子。その人と幸せに暮らしてくれ。

 当然のように家には誰も居らず、時刻は三時半になっていた。ふとスマホを見ると、稔からメッセージが送られている。「食べてくるから夕飯はいらない」。大きなため息を一つ吐き、特に見たい番組もないがテレビを見て気を紛らわせようとする。だが興味のあるものもなく気休めにもならなかった。いつの間にか降り始めた雨が窓ガラスを濡らし、部屋の色を一層暗く染めていた。


「え、それ稔くんにやられたんすか?」

 目を丸くする海原くんは、私の頬の絆創膏を指差して言った。私は頬の絆創膏を軽く触りながら、昨日の出来事を想起していた。

「ああ。深夜二時に帰ってきたところを問い詰めたら、写真立てを投げつけられてね」

 昨日の夜、稔が帰ってくると、私はさっそく問い詰めた。稔は当然答えなかったが、嘘を吐いたことや毎日のように日付が変わるまで帰って来ないことなどをいつもより長く説教した。そのせいか、稔は大声で怒鳴って傍に置いてあった写真立てを私の顔に向けて思い切り投げた。それは私の頬に傷を付け、稔はさらに口を聞かなくなってしまった。

「それは、大変でしたね……。俺子供にそんなことされたら立ち直れないっすよ~」

「はは、まあ、もう慣れたけど」

 言いながら、今日のメニューであるロールキャベツを口に運ぶ。

 昼休憩の時は決まって同じ部署の海原くんと食堂で食べていた。社員用の食堂のメニューは日替わりで、特別美味しいとは言えないが、無料で食事ができると考えれば十分な味だった。海原くんは私より二年早くこの会社に入っており、立場としては先輩なのだが、彼は年上に敬語を使われるのを嫌うらしく、こうして敬語を外して話している。人懐っこい彼は積極的に私に話しかけてくれるため、私も接しやすかった。時には稔の話をすることもあり、相談役を引き受けてくれることもある。

「あ、そうそう。もうすぐ稔の誕生日なんだけど、何あげようか迷ってるんだよ」

 あと四日で稔の誕生日だ。昨日の喧嘩もあって、プレゼントをちゃんと受け取ってくれるか不安だが、とりあえず何か買っておきたかった。稔の欲しがっているものなんて思いつかないけれど、何もないよりはずっとマシだろう。

「おお! 誕生日なんすね! いつですか?」

「今週の金曜なんだけど」

「へえ! それはおめでたいっすね!」

 言いながら、彼は手帳に何やらメモしていた。書き終わると、腕組みをして考え込んだ。

「うーん、俺は基本気持ちが大事だと思ってるんで何でもいいと思うんすけど、あえて言うなら使わないものを貰うと困るっすね。普段使うものとかいいんじゃないっすか? 普通で申し訳ないんすけど」

「なるほど。いや、ありがとう。参考にしてみるよ」

 それからは雑談をし、昼休憩が終わると仕事に戻った。今は週末にある商品企画のプレゼンのための資料作りが残っている。その仕事を早く終わらせなければと思いながらも、時々稔や美代子のことが頭にちらつく。必死に頭から消そうと思っても、そう思えば思うほど脳内をぐるぐると回って離れなくなる。今日は一体何時に帰ってくるのだろう。平日だから夜には帰ってくるだろうが、せめて十二時には帰るようにしてほしい。どうせまた深夜二時や三時になるんだろうけれど。


 仕事終わりに「みやかわ」へ寄った。稔へのプレゼントを買おうと日用品を探す。宮川さんの商品はどれも手作りの温かさがあるから、稔も気に入ってくれると思う。気に入ってくれなかった場合は私が代わりに使おう。うん、そうしよう。

 店内には他に杖をついたおばあさんが一人いた。おばあさんはレジにいる宮川さんに何かを訪ねているようで、私は邪魔にならないように離れていた。すると、一つのマグカップに目が留まった。星座が描かれた紺色のマグカップだ。昔、稔がプラネタリウムで喜んでいたことを思い出し、おばあさんが宮川さんの傍を離れたところを見計らって会計を済ませた。


「稔、誕生日おめでとう」

 珍しく十一時に帰ってきた稔に、私は月曜日に買ったマグカップを手渡した。稔はそれを両手で持ちながらじっと眺めていた。

「これ、晴の父さんのところの?」

「ああ、そうだよ。気に入らなかったら父さんが使うから」

「ふーん……」

 笑顔は見せないが、気に入らないわけではなさそうだ。稔はマグカップを軽く洗って食器乾燥機に入れた。

 今日は多分、明日のために早めに帰ってきたのだろう。数日前に土曜日に友達が来るからと一言だけ私に声をかけていた。晴くんに聞いていたので知っていたが、誕生日会をするとかそういうことは言わなかった。


「稔、誕生日おめでとう!」

 パァン、と二つのクラッカーが鳴り響いた。玄関でその音を浴びた稔は、ありがとうと小さく零した。私からは背中しか見えず顔は見えなかったが、明らかに嬉しそうなその声に自然と口が緩んだ。

 町長の娘であるめぐみちゃんは、私が想像していたような子ではなかった。もっとお淑やかな女の子だと思っていたのだが、めぐみちゃんはなかなかしっかり者の女の子だった。私と目が合うと、丁寧に挨拶をしてくれた。

「はじめまして。錦原めぐみと言います。今日は家に上がらせていただいてありがとうございます」

 深々とお辞儀をする。頭の上で結ってある髪がさらりと落ちてくる。その綺麗な髪が元の位置に戻るのを見届けると、私もめぐみちゃんに軽く頭を下げた。

「こちらこそ稔のためにありがとう。そんなにかしこまらなくてもいいのに」

「いえ。年上の方に敬意を示さないのはよくないので」

 しっかりした子だなぁ、というのが第一印象だった。めぐみちゃんは町長の娘という立場のためか、学校でも委員長としてクラス(と言っても十人も満たないほど少ない)をまとめているらしい。確かに彼女なら委員長としてやっていけそうな雰囲気がある。

 晴くんにホールケーキを冷蔵庫に入れてほしいと頼まれ、ケーキの入った箱を冷蔵庫へ入れた。三時頃にこちらへ来てケーキを食べるのだそうだ。

「めぐみー、稔の部屋行くぞー!」

「うん、すぐ行く。では失礼します」

 もう一度お辞儀して、彼女は稔の部屋へ入っていった。三人が扉の奥へ消えると、私は時々聞こえる笑い声を聞きながらベランダに出て一服した。息子に誕生日を祝ってくれる友人がいることに安堵し、もう一度煙を吐く。

 この前美代子に会ってショックを受けたが、こうして友達と仲良くしている稔を見るとストレスが泡のように消えていくのを感じる。友達がいるのなら普段も友達と遊べばいいのに、どうしてどこの誰とも分からない人と遊んでいるのだろう。やはり私が父親として頼りないからだろうか。今の美代子の夫のようにしっかりしていれば、今のように夜遅くまで遊ぶこともなかったのかもしれない。

 また落ちそうになっている気分を紛らわすため、またメビウスを奥までたくさん吸った。

 三時になり、三人がリビングへ戻ってきた。私はケーキをダイニングテーブルに置き、包丁と取り皿を用意した。晴くんに促され、私も一緒にテーブルの席、稔の隣に座った。稔は渋々ではあったが、私も含めて四人分のコップを出してくれた。自分のところにはあの星座のマグカップを置いている。それぞれ私と晴くんはレモンティーを、稔とめぐみちゃんはミルクティーを入れた。そうしてやっと準備が整った。

 イチゴのケーキにろうそくを立てて火をつける。そして部屋の電気を消すと三人で誕生日の歌を歌った。稔が息で火を消すとおめでとうと言い拍手をする。何の変哲もない普通の誕生日会なのに、その普通の幸せが嬉しくて目頭が熱くなる。ふと稔を見ると、目を細めて穏やかに笑っていた。稔の笑顔を見たのは二年ぶりだった。

 電気を点けると、晴くんが率先してケーキを切り分けてくれ、四人の皿に分けてくれた。稔には一番大きくてイチゴがたくさん乗ったものを、めぐみちゃんは小さくもイチゴが多めのものを、私には稔の次に大きいものを分けてくれた。晴くんのは小さくイチゴも一つしか乗っていない。私は自分のと取り換えようと言ったが、晴くんはあまり甘いのは得意じゃないのでと断った。

 ケーキを一口食べると、生クリームの甘い香りと味が口内に広がる。稔の方をちらりと横目で見ると、幸せそうに口をもぐもぐと動かしていた。稔は昔から甘いものが好きで、お饅頭とかタルトとかパンケーキとか、甘いものは基本何でも好きだった。何かお祝いをする日は決まってケーキを買っていたのを思い出す。

「あっま! 美味しいけど甘っ!」

 晴くんが眉を寄せて唸りながら食べている。唸るほど辛いのだろうか。晴くんが甘いもの苦手ということは、宮川さんも苦手だったりするんだろうか。

 晴くんの様子を見て、稔は不思議そうに首を傾げた。

「晴ってそんなに甘いの苦手だった?」

 口の中にあるスポンジと生クリームを何とか飲み込むと、晴くんはフォークで小さく切ってまた口に入れる。おじいさんと同じくらい顔に皺を寄せ、フォークを口に咥えながらもごもごと答えた。

「んー、稔ほどは好きじゃないな」

「なにそれ。俺だって甘すぎるのは好きじゃないし」

「んなこと言って、このまえ笠江町のパンケーキの店の前通った時、すっごい目輝かせて見てたじゃん! あれパンケーキふわっふわだし生クリーム大量に乗ってたし! 俺あんなの食べたら胃もたれする!」

 喚く晴くんを眺めながら、私も大量の生クリームは得意じゃないなぁとぼんやりと思った。ケーキもたくさんは食べられない。こうしてホールケーキをみんなで分け合うのが一番丁度良かった。

「胃もたれって……。あれは東京にあるやつで、期間限定で売ってるやつだから食べたかっただけだよ。てかもう行ったし」

 稔の零した言葉に、晴くんはぴたりと動きを止めた。一瞬でしんと静まった彼は、真剣な目を稔に向ける。

「いつ?」

「あー、前の日曜だったかな」

 稔は気づいていないようだった。晴くんの方を見向きもせず、イチゴが挟んである部分をぱくりと食べる。晴くんは食べるのをやめ、フォークも皿の上に置いていた。

「誰と? お父さん一緒に行ったんですか?」

「いや、行ってないよ」

 私が手を振って否定したところで、稔は自分の過ちに気が付いたらしい。一瞬だけ晴くんを見、すぐに目を逸らしてどう返そうか迷っているようだった。おそらく、あの電話の向こうにいた相手と一緒に行ったんだろう。私は稔がどう答えるのか静かに見守った。

「……一人で行ったんだ」

 最後の一粒のイチゴを口に含む。それを味わうことなくすぐに飲み込み、稔はミルクティーを一気に飲み干した。居心地が悪いのだろう、テーブルの下で小さく貧乏ゆすりをしている。

 晴くんはじっと稔のことを見続けている。半分ほどしか食べていないケーキは皿に残ったままで、横に倒れてしまっていた。

「ふーん。美味しかった?」

「美味しかったよ」

 稔はそれだけ言い、それ以上は何も言わなかった。少しだけ二人の間に静寂が流れたが、晴くんは今日が稔の誕生日だということを思い出したからか、突然大きな声を出して静寂を壊した。

「よかったじゃん! めぐみは甘いの好き?」

「えっ、まあ、それなりに」

 急に話を振られたため、めぐみちゃんは驚いて肩を震わせた。彼女はもうすでにケーキを食べ終え、食後のミルクティーを堪能しているところだった。

「今度一緒に行くか?」

「は? 何で、と、突然過ぎるでしょ!」

 晴くんが話を変えたおかげか、何とか三時のティータイムは凍り付くような雰囲気では終わらずに済んだ。稔も気にしないようにとぎこちない笑顔を作っていた。結局晴くんは半分近くケーキを残し、それを稔が食べることになった。


 あっという間にパーティーは終わりを迎えた。ティータイムの後はまた部屋へ戻って遊び、私はリビングでゆっくりとくつろいだ。食後のせいか、ソファへ寝転ぶと微睡み、そのまま一時間ほど熟睡した。

 午後五時過ぎ、晴くんとめぐみちゃんは玄関で私と稔に手を振った。その頃には稔もすっかり元気を取り戻していて、二人を笑顔で見送っていた。

「楽しかった! 今度は俺の家で遊ぼう!」

「うん。またな」

「また学校でね。あ、今日は本当にありがとうございました」

 めぐみちゃんは私に深くお辞儀をする。それに釣られるように晴くんもお礼を言った。

 めぐみちゃんの家へは晴くんが送ってくれるらしく、玄関で別れることになった。二人が扉から出ていくのを見届けると、稔はすぐさま私の横を通り過ぎ、自室へと入っていこうとした。それを、私は声で遮る。

「夕飯何がいい?」

 ドアノブに手を掛けたまま、首だけを動かしてこちらを振り返る。その目は普段と同じ嫌悪丸出しのどす黒い色をしていた。さっきまでの笑顔はどこかへ消え去り、私にこの場から消えてほしいという感情が滲み出ている。私に背を向けてドアを開けてから、稔は小さな声で答えた。

「いらない。これから出かけるから」

「出かけるって、どこに」

 一度部屋へ入り鞄だけ持って出てきた稔は、私を一瞥することなく玄関で靴を履き始めた。その後ろ姿が一瞬あの日の美代子と重なり、私は手を伸ばした。が、その手が触れるより先に稔が立ち上がり、さっと手を戻した。

「どこだっていいだろ。あと帰ってくるの明日の夜になるから。じゃ」

「え、ちょっと稔」

 バタン、と乱暴に閉められる扉。物音一つしなくなった玄関で、私は暫く何もできずに突っ立って靴が一足消えた場所をぼうっと眺めていた。

 私が何か言う前に稔は出て行ってしまった。ほとんど私を見ることはなかった。誕生日パーティーで何となく安心してしまっていた自分が馬鹿みたいだ。その場の雰囲気だけで大丈夫だと錯覚し、稔は以前よりは私と話してくれると思った。だが実際は違った。稔は私のことなど眼中になかった。私の知らない、年上の誰かのところへ行ってしまった。その人が何を思って稔と一緒にいるのかは分からない。もしかしたら本当に親切心でいろんな場所へ連れて行ってくれているのかもしれない。いや、夜遅くまで、時には朝まで中学生を連れ回す人がいい人なはずがない。稔はその人に懐いているんだろうけれど、多分騙されている。そのことに気付いているんだろうか。気付いていれば付いていったりしないか……。

 その日の夕飯も冷凍の鍋焼きうどんを一人で食べることになった。そう言えば、この町に来てからもう何日も稔と夕飯を共にしていない気がする。いつになったら一緒に食べられる日が来るのだろう。

 大きなため息を一つ吐き、コシのないやわらかいうどんを啜った。

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