色褪せた白

橘水海

第1話

 部屋に充満する昼食のレトルトのシチューの甘い匂いを感じ取りながら、棚の上に置いてある少し色褪せてしまっている写真を手に取る。真っ白のワンピースと麦わら帽を身に纏った美代子と私と稔が笑顔で写っている。みな心からの笑顔を見せている。その写真を指で優しく撫で、最後に美代子をじっと見つめてから棚に戻した。ソファに身体を預け、メビウスを一本取り出してライターで火をつける。一本だけなら換気しておけば大丈夫だろう。今日は何だか憂鬱な気分だ。こんな日くらいは許してもらおう。

 適当にテレビのチャンネルを変えても面白そうな番組はやっていなかった。テレビを見て気を紛らわそうと思ったのに、そう簡単にはこの気持ちを忘れさせてはくれないらしい。特に何かがあった訳でもないのに急に暗い気分になる自分に嫌気が差す。こんな記憶は早く消し去ってしまいたいのに、どうしても写真は捨てられないし美代子のことも二日に一回は思い出してしまう。こんな性格だから捨てられるんだ、と煙草をガラスの吸い殻に押し付けて潰した。

 インターホンが高い音で鳴り響く。一人のせいかやけに大きく聞こえ、重い腰を上げて玄関へ向かう。土曜の昼間に訪ねてくる人なんて思い当たらない。宅配なんて何も頼んでいないはずだし、一体誰だろうと扉を開ける。そこには長身の男が立っていた。私より五センチ以上は高いであろうその男は、笑顔で会釈をして一つの箱を手渡した。

「今日隣に引っ越してきた永瀬と言います。これ、つまらないものですが」

 見ると、大きく東京の文字が書かれたお菓子だった。この人も東京から引っ越してきたのか。見たところ明るそうな人だし、嫌な人ではなさそうでよかった。お菓子を受け取ると軽くお礼を言い、また家の中に戻ろうとすると、永瀬さんは私を引き留めた。

「あ、すみません。あなたの名前は?」

 そう言えばそうだった。相手に名乗らせて自分は言わないのは失礼すぎる。気を付けるようにしなければ、せっかくいい町に来たのに追い出されることになってしまう。閉じかけていた扉を再び開け、改めて名乗る。

「三藤です。三藤浩明」

「三藤さん、三藤さんね。これからよろしくお願いします」

「はい。よろしくお願いします」

 簡単な挨拶を済ませ、扉を閉めて中へ戻った。小さなアパートだけれど、けっこう入居者はいるようだ。それに悪戯や嫌がらせをするような人もいない。部屋は小さいけれど、思っていたよりも悪くない町だった。ここなら稔も前よりは快適に暮らせるかもしれない。私が彼の機嫌を損ねるような真似をしなければ、だが。

 お菓子をテーブルの上に置いてソファに腰を下ろすと、ピロンとスマホが音を立てた。開くと稔からだった。「遅くなるから先に食べてて」。一言だけ送られているメッセージに「わかった」とだけ返す。スマホをテーブルに置いて窓の外に視線を移し、ぼうっと青く澄んだ空を眺めた。

 稔の帰りが遅くなったのは二週間前、この湯雁町(ゆかりまち)に来てからだ。東京ではそんなことはなかった。部活もやっていなかったし夕方五時には家に帰っていた。それが、今では日を跨ぐのが当たり前で、酷い時には朝の六時に帰ってくることさえあった。学校では部活は入っていないみたいだし、そんな長い時間何をしているのだろう。学校の友達と遊んでいると本人は言っているけれど、中学生なのにそんな時間まで一緒に遊ぶ子がいるのだろうか。どこで遊んでいるのか、何をしているのか何度も聞いてみたが、全て無視された。ただの反抗期であればまだ気は楽だったかもしれない。稔の笑顔を見なくなったのは全部自分のせいだと分かっている。私が悪いのだ。私が過ちを起こさなければ稔は……。だからこそ私は稔のことが苦手だった。美代子にそっくりの美形の顔立ちが、私に向けられる嫌悪感丸出しの表情が、夜遅くまで帰って来ないなどの非行全てが苦手だった。稔がこんな性格になってしまったのは自分のせいなのだ。私は父親失格だ。

 頬に涙が流れた。目の奥が熱くて喉の奥から引き攣った声が漏れる。右腕でそれを乱暴に擦り、必死涙を堪えた。こうやって鬱になって泣いてしまうのが嫌なのに、気持ちに反して涙は次から次へと溢れてくる。いつの間にか声が抑えられないほど泣いていて、涙が枯れるまで治まらなかった。こんな姿を見たら稔は軽蔑するだろうな、と思うとまた泣きそうになったが、今度は何とか涙を引っ込めた。


 気が付くと、空はもう暮れなずんでいた。どこかでスズムシの鳴き声が聞こえる。今日は何もしていないけれど、考え事が多くて疲れてしまった。早めに夕飯を食べようか。稔は遅くなると言っていたけれど、どれくらい遅くなるのだろう。夕飯はいるのだろうか。友達と食べてくるのだろうか。稔に「夕飯はどうする?」とだけ送り、久しぶりに自分で作ろうと冷蔵庫を漁る。見るとトマト缶があった。ミートソースパスタでも作ろうか。ひき肉や玉ねぎ、にんじんもあるし二人分くらいなら足りるだろう。もし稔が食べなければ明日の昼に食べればいい。そう考えて台所に立ち、フライパンを手に取った。

 夕飯を食べ終わったのは六時過ぎだった。さすがに早すぎたか、と思いながらスマホを開く。まだ稔からの返事はない。多分、夕飯はいらないんだろう。返事がなかなか返ってこない日はいつもそうだ。せっかく作ったご飯は結局全部自分で食べることになる。別に料理が得意なわけではないから特別美味しくはないだろうが、たまには私の手料理も食べてほしい。狙ったかのように私の手料理の日は決まって外食をしてくる。もしかしたらわざとなのかもしれないとさえ思う。大嫌いな父の料理なんて口に入れたくないということか。勝手にそう考えて傷ついている自分に舌打ちをした。

 稔が家に帰ってきたのは深夜一時頃だった。私は玄関の扉の開く音で目を覚ました。ソファでうたた寝をしてしまっていたようだ。リビングに入ってきて私の姿を目に映した稔は、眉を顰めて明らかに不機嫌になった。まだ起きてたのか、とでも言いたげだ。帰ってきた稔は少しやつれている様子で、鞄を乱暴に床に落とした。

「今日はどこに行ってたんだ?」

「は? どこだっていいだろ」

 相変わらずの口の悪さにため息が出る。稔は鞄からスマホだけ取り出すとそのまま自室へ行ってしまった。何となくこのままベッドで寝てしまう気がする。せめて風呂にだけは入らせなければと思い、私は稔の自室のドアを開けた。

「稔、寝る前に風呂には入るようにな」

「おい勝手に入ってくんなよ! ノックしろよ常識だろ!」

 稔はベッドに寝転んでスマホを触っていた。それだけ言うとスマホに目線を移して画面をタップし始める。何をしても大声で怒鳴られるから正直疲れてきた。むしろ何も言わず全く干渉しない方が喜ぶのかもしれない。

 ふと勉強机を見ると、綺麗に整理整頓されていた。紙や本が散乱しているところは見たことがない。そういうところは美代子の血を受け継いでいるらしい。私は整理整頓が大の苦手だから、気が付くと辺りが散らかっている。綺麗好きなら風呂には入ってくれるか、と自分の中で結論付ける。そっとドアを閉め、リビングのソファへ戻った。


「晴(はる)と出かけてくる」

 稔は日曜の朝もいつものようにその一言だけ言って出ていった。心なしかいつもより嬉しそうに見えた。晴くんは中学校の友人で、二つ隣の部屋に住んでいる宮川さんの息子だ。

 私は特にすることもなく、十一時過ぎに家を出た。宮川さんはアパート近くで雑貨屋を自営している。宮川さんはあまり話し上手ではないが、穏やかで話しやすかった。事情は知らないけれど、私と同じで宮川さんも父子家庭だそうで、親近感が湧いた。一緒にいると落ち着くため、私は勝手に宮川さんのことを気に入っている。晴くんも明るくて良い子だ。晴くんが私の息子だったら……とまで考えて慌てて考えを振り払う。ダメだ。そんなことを考えても仕方がない。稔の問題は私の問題でもあるのだから。

 アパートから徒歩一分の場所にある「みやかわ」と書かれている雑貨屋に着く。宮川さんは私と目が合うと目を細めて微笑み、軽くお辞儀をした。何も買う予定はないが、宮川さんと雑談するため店内へ足を踏み入れていく。商品の品出しをしている宮川さんは、少し手を止めて私との立ち話を受け入れてくれた。

「こんにちは。いい天気ですね」

「ええ、本当に。こんな日はどこか出かけたくなりますね」

 言いながら宮川さんは商品を綺麗に並べていく。ここの店の商品は全て宮川さんの手作り商品なのだ。手先が器用で大抵のものが作れてしまう宮川さんの雑貨は、この町の人に好評だった。可愛らしいうさぎの箸置きから木製の本棚までありとあらゆる作品を作り出している。私はあまり器用ではないから宮川さんの才能が羨ましかった。私より十歳ほど若いはずなのに、宮川さんの方がしっかりしていてずっと大人に見える。

「宮川さんはどこか出かけたりしないんですか」

 聞くと、宮川さんは視線を私から外して口を噤んでしまった。手作りの宇宙柄のブックカバーを指先で擦り合わせながら言いずらそうに口を開く。

「実は遠くへ出かけるのが好きじゃなくて」

「そうなんですか。あ、でも近場だったらどうです? 今度一緒に出かけませんか?」

 私にしては勇気ある行動に思えた。自分から誘うのは苦手で、いつも誘われて付いていくスタンスだった。自分から誘いたいと思えるほど宮川さんのことを気に入っているとは、自分でも驚いていた。

 宮川さんは少しの間考え込み、顔を上げて私に優しく微笑みかけた。

「そうですね、考えておきます」

 あまり乗り気ではない様子に正直がっかりしたが、無理矢理誘うのは良くない。その話はそれで終わり、その後は何かないかと店内の商品を見回ってみる。宮川さんの作る商品はどれも温かい雰囲気があって好きだった。多分、人柄が作品にも滲み出ているんだろう。

 一通り店の中を一周すると、明るく元気な声が耳に届いた。

「あ! 稔のお父さん! こんにちは!」

 店の奥から晴くんが顔を出した。私に向かって大きく手を振ってくれる姿に自然と笑みが零れる。だがそこで、ここに彼がいることのおかしさに気が付いてしまった。

「え、あれ? 晴くん?」

 晴くんは今、稔と出かけているはずだった。稔は確かにそう言っていた。だがここに彼がいるということは、稔は晴くんとは一緒にいないということ。私は稔に騙されていたというのか。今、私の息子は一体誰と一緒にいるのだろう。

 稔に嘘を吐かれていたということを分かっていながら、私は晴くんに確かめるように問いかける。

「今日、稔と遊ぶ約束してなかった?」

「え? 今日は父さんの手伝いですよ。新商品がたくさん出来上がったらしくて、たくさん宣伝して回ろうと思ってるんです!」

 目をキラキラと輝かせている晴くんはとても眩しかった。どうしたらこんなに優しい子ができるんだろう。稔に優しくされたのはもうずっと前のことだ。稔が小学生の時に誕生日プレゼントとして肩たたき券をくれたことが最後だったろう。その後は離婚や学校のことでそれどころではなくなってしまった。今では話すらまともにしてくれないほどだ。

「稔はまた出かけてるんですか?」

 晴くんが不安げに表情を曇らせる。ただ出かけているだけなら不安にはならない。いつもどこにいるのか誰といるのか分からないから心配になるのだ。晴くんも稔の素行が悪いことは知っているらしく、何度か注意もしているのだとこの前話していた。

「ああ、そうなんだよ。どこ行ってるんだろうなぁ」

 晴くんの前で明らかに不安そうにするわけにはいかないと思い、何でもない風を装って口端を上げて笑う。近くにあったハロウィンのカボチャの置物を手に取る。手の上で軽く転がした後、元の場所に戻して後ろの棚の商品に視線を移した。あと一か月半でハロウィンだ。その前に稔の誕生日がくる。今週の金曜日までに何かプレゼントを買っておかなければ。稔が何を欲しがっているかは分からないし私から貰っても嬉しくはないだろうが、親として息子にプレゼントしてあげたい。ただそれだけなのだ。

 晴くんは何かを思い出したらしく、商品を並べる手を止めてこちらを振り返り、声の調子を上げた。

「そうそう、来週の土曜日に稔の家に行こうと思ってるんですけど、行っても大丈夫ですか?」

 一日前の金曜日は稔の誕生日だ。晴くんは稔のことを祝おうと思っているのだ。稔に優しい友達ができたことが嬉しくて、胸の内が熱くなった。

「私は別に構わないよ。稔の誕生日を祝ってくれるんだね」

「はい! もう一人錦原っていう町長の娘も一緒で、盛大に祝いたいなって思ってて。ケーキとかプレゼントは俺らが用意するんで、おじさんは何もしなくても大丈夫です!」

 そう言い、晴くんは稔を驚かせて喜ばすための計画を楽しそうに話してくれた。錦原さんという町長の娘さんにはまだ会ったことがなかったから、この機会に話せたらいいなと思う。町長の錦原さんには引っ越した日に会っているが、その時は娘さんは見なかった。

「気を遣わなくていいからね。精一杯稔のこと祝って喜ばせてあげて。私といると、あの子いつも不機嫌だから」

「任せてください! お父さんにも稔の笑顔見せますよ!」

「本当に? それは楽しみだなぁ」

 晴くんの自信たっぷりの明るい笑顔を見ていると、私の悩みなんて吹き飛んでしまいそうだった。吹き飛んでしまいそうだが、そう簡単に解消されるようなものではない。美代子のことは忘れ、稔と仲良くできる日はいつ来るのだろう。稔は今どこにいるんだ。嘘なんか吐いてまで誰と会っているんだ。何も分からない。自分の子供なのに、どうしてこう上手くいかないんだろう。


 宮川さんたちと別れると、アパート前まで戻り、とりあえず稔へ電話をかけた。出てくれる可能性は低かったが、出てくれることを願ってコールが止まるのを待ち続ける。十回ほど鳴り続けた後、向こうから「何?」という低い声が返ってきた。何とか稔が電話に出てくれた。とにかく聞くべきことは聞かなければと、少し口早に質問する。

「今日晴くんに会ったんだ。稔、今誰といるんだ?」

 少し間が空いて、チッと舌打ちする音が聞こえた。

「俺が誰といようがお前に関係ないだろ」

 いつもよりさらにドスの利いた、聞くだけで苛立っているのが分かるような低い声だった。私は思わず一瞬怯んでしまったが、ここで黙ってはいけないと自分を奮い立たせる。

「関係ないわけないだろ。隠れて危ないことしてるんじゃないだろうな」

「はぁ? 何それ。あ、はい、すぐ行きます。……もう切るよ」

「え、ちょ、ちょっと稔」

「帰り遅くなるから。多分十二時は過ぎる。自分で勝手にやるし、無理に起きてなくていいからな。じゃ」

 そして、電話は一方的に切られてしまった。ツー、ツー、という無機質な音がやけに大きく耳の奥に響いている。

 私はずっと、稔が一緒にいる相手のことを考えていた。稔が敬語を使うということは年上だ。同年代の友人ではない。そう考えるとやはり、稔は何か危ないことに足を突っ込んでいるのではと思ってしまう。誰と一緒にいるのかを知るまで安心はできない。先に寝ろと遠回しに言われたが、帰ってきたら聞きたいことがたくさんある。嫌がられるだろうが、聞かないわけにはいかなかった。

 ふと腕時計に目を向けると、午後二時だった。そろそろ昼食を取ろう。考えごとをしたいし、どこか落ち着くカフェにでも入ろうか。そういえば、隣町に今日新しくオープンする店があるってこの前宮川さんが言っていたな。確か、カフェだったと思う。

 そのカフェに行こうと思い、ここから車で三分程度の隣町へ向かう。笠江町(かさえまち)といい、私の住んでいる湯雁町と比べるとずっと栄えている町だ。湯雁町は子供の数も少なく、小学校と中学校が一緒になっている。高校はなく、別の町まで行かないとない。稔がどこに行こうとするかは分からないが、中学を卒業すればこの町を出ていくかもしれない。気に入っているからあまり出ていきたくはないが、稔が遠くへ行きたいと言えば仕方がない。その時は私も諦めてここを出ていくだろう。

 笠江町にあるファミリーレストランの隣にそのカフェはあった。駐車場は車が五台程度駐車できる大きさで、「Calm cafe」という看板が掛けられている。小さめだが落ち着く店だ。まだ一台もない駐車場に車を停め、店のドアを開ける。可愛らしい鈴の音が鳴り、奥の方から男の人のいらっしゃいませという声が飛んできた。店内には木のテーブルと椅子があり、天井には植物の入った透明の容器がいくつもぶら下がっている。レジの周りには動物たちと切り株の置物が置かれ、カウンター席には果物の置物と造花がお洒落に並べられていた。淡い水色の暖簾を潜って顔を出した店員の顔を見て、私はあっ、という声を上げた。

「えっと、隣に引っ越してきた……」

「ああ! 三藤さん!」

 向こうも私に気が付き、名前を呼んでくれた。だが私は名前をど忘れしてしまっていた。隣に越してきた明るそうな男性。何という名だっただろうか。

 名前を言えずにどうしようかと視線を泳がせていると、男性の方から名乗ってくれた。

「僕、永瀬ですよ。いやぁ、まさか三藤さんが来てくれるなんて。あ、好きな席に座ってくださいね」

 そう言うと、一度永瀬さんは暖簾の奥へ消え、すぐに水の入ったグラスを持って戻ってきた。私は窓際の二人席のテーブルに座り、持ってきてくれた水を一口喉の奥へ流し込む。永瀬さんはメニューを広げ、私にオススメのメニューを紹介してくれた。

「ランチはこのおろし豆腐ハンバーグランチがオススメなんですけど、男性ならこちらのオムライスランチの方が量があるのでオススメです。食後はコーヒーか紅茶を選べますが、当店は紅茶にこだわりがありまして、何種類もの中からお選びいただけます」

 メニューの紅茶の欄にはいくつもの紅茶の種類が書かれていた。だが残念ながら私には紅茶の知識が皆無なので、名前を知っている中から選ぶことにした。知らないものを頼むのは何だか怖いのだ。

「じゃあ、その豆腐ハンバーグランチで、飲み物は紅茶の、ええと、アールグレイでお願いします」

「かしこまりました」

 永瀬さんが暖簾の奥へ消えると、私はまた稔について考え始めた。

 稔はおそらく、いつも年上の誰かと一緒にいるのだろう。そして日付が変わる時間までどこかで遊んでいる。いや、遊んでいるのかも分からない。もしかしたら大人に誑かされて働かされているのかもしれない。さっきの電話の様子だとその可能性は十分ある。そう思うと居ても立っても居られなくなるが、まだそうと決まったわけではない。ただの思い込みで動くと碌なことがないのは自分の経験上分かっている。自分を必死に落ち着かせ、今私にできることは何なのかを考え始めた。

 一番はやはり帰ってきた稔に話を聞くことだろう。だがこれはおそらく上手くいかない。稔が私と話してくれる可能性は一パーセントもないのだ。それなら、晴くんに頼んで稔のことを調査してもらうのはどうだろう。晴くんなら快く引き受けてくれると思う。けれど晴くんに申し訳ないし、関係ない人を巻き込むのは気が引ける。となれば、私が稔のことを調査することになる。平日は疲れているからあまりやる気は起きないが、土日に一時間程度、笠江町を歩いてみることにする。遊べる場所は笠江町しかないから、おそらく町のどこかにはいるだろう。一時間探して見つからなければ帰るが、見つかれば後を追ってみてもいい。とにかく稔が何をしているのか知る必要がある。水を一口飲み、私にしては大きな決意を胸に刻んだ。

 暫くして、永瀬さんがランチを運んできた。豆腐ハンバーグとポン酢のいい匂いが鼻を通り、私のお腹がぐうと音を立てる。ご飯とサラダが付いていて、ランチとしては丁度いい量だった。私は普通の男性の量ほどは食べられない。

「お待たせしました。豆腐ハンバーグランチです。……あの、今は他にお客様がいないので、少しお話してもいいですか?」

「え? ああ、はい。構いませんよ」

「よかった」

 にっこりと微笑み、永瀬さんは私の前の席へ座る。ほかほかのハンバーグにナイフを入れようとすると、永瀬さんが口を開いた。

「三藤さんはいつからこの町に?」

「二週間ほど前からです。それまでは私も東京に住んでまして」

「そうなんですね! 僕も東京にいたんですけど、三藤さんはどうしてここへ?」

 少し話すかどうか迷った。出会ったばかりの人に話すような内容ではないし、永瀬さんも突然そんな話をされても困るだろう。私の息子が少し前にいじめに遭って暴力事件を起こしたんですなんて言われても何て返せばいいか分からない。私は細かくは言わず、曖昧にして伝えることに決めた。

「実は、息子のことで色々ありまして、東京に居られなくなったので、東京から遠く離れた場所へ行こうと」

「なるほど。息子さんは何歳なんですか?」

「十三です。今中学二年生です」

「わあ、思春期真っ只中じゃないですか。色々大変な時期ですよね」

「まあ、色々と。永瀬さんはどうしてここへ?」

「僕、元々警察官やってたんですよ」

「警察!?」

 驚いて思わず大きな声を出してしまい、顔が熱く火照った。恥ずかしくて顔をさっと伏せる。だが永瀬さんは全く気にする様子もなく、平然と話した。

「はい。で、まあそこで上司と揉めてやる気もなくしたので、引っ越してカフェを始めたんです。もともと料理が好きっていうのもありますしね」

 にこにこと笑顔を絶やさない永瀬さんは、とても元警察官には見えなかった。警察が無愛想だということではなく、ただ何となく、警察になりそうな雰囲気がないと思った。こう言っては永瀬さんに失礼だが、彼は正義感があるようには見えないのだ。私と違ってコミュニケーション能力はありそうだから、今のような接客業に向いている気がする。辞めた理由も上司と揉めたからだそうだし、多分、彼は正義のために命を捨てるようなことはしない。

「最近まで東京にいたって聞くと、何だか急に親近感湧きますね。この町は昔から住んでいる人が多いみたいなので」

「そうなんですか?」

「はい。僕ら以外、ほとんどこの町で生まれ育った人ばかりらしいですよ。錦原さんが言ってました」

 町長の錦原さんには引っ越した時に会って話したが、そんな話は記憶になかった。もしかしたら私が忘れてしまっただけなのかもしれないが。

 カランカラン、と鈴が鳴った。扉が開いて三人の若い女性が入ってくる。瞬時に立ち上がった永瀬さんは、にこやかな笑顔を作って女性客を案内する。話は中断され、一人取り残された私は少し冷めてしまったハンバーグを口に運んだ。

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