第3話
言っていた通り、稔は朝になっても帰って来なかった。スマホを見てもメッセージは来ていない。軽く朝食を済ませ、もう一度探してみようかと笠江町へ足を運んだ私は、暫く商店街を見回り、昼前に「Calm cafe」に寄った。午前十一時過ぎだとまだ人は誰もいない。永瀬さんは私に気が付くと、パッと明るい笑顔を向けた。
「また来てくださったんですね!」
前と同じ窓際の席に座り、永瀬さんが持ってきてくれた水を一口飲む。メニューを開き、たくさんの料理を目で追っていく。
今日は彼に相談してみようと思っている。お客さんが来てしまったら無理だが、今ならまだ大丈夫だろう。元警察である彼なら、何かいいアドバイスをくれるかもしれない。そんな期待を胸に抱きながら、私はたらこパスタランチを頼んだ。
「永瀬さん、実は少し相談がありまして」
たらこパスタランチが運ばれ、永瀬さんが伝票を裏向けておいたところで、私は彼に声をかけた。一瞬目を丸くしたが、すぐに私の前の椅子に座りにこりと笑った。
「僕で良ければ」
食べながら話すのは気が引けるため、話が終わってから食べようと思ったのだが、冷めないうちに食べた方が美味しいですよと永瀬さんに促され、私は一口パスタを口に入れてから話し始めた。
「実は息子のことで困っていることがあるんです」
「息子さん?」
そう言ってから、永瀬さんはああ、と声を上げた。
「そう言えば、この前息子さんのことで色々あったって言ってましたもんね」
さすが元警察官だ。よく聞いている。私だったらあんな一瞬の言葉、聞き逃していたか忘れていただろう。感心しながらも、パスタをくるくると巻き取りながら言葉を一つ一つ選んでいく。
「息子……稔って言うんですけど、この町に来てからずっと帰りが遅いんです。平日休日関係なく、毎日。それで、どこで誰といるのか調べようと思ってまして」
今日に至ってはどこかに泊まっている。さっき商店街をぐるりと一周してみたが、稔の姿は見当たらなかった。もしかしたら商店街ではないのかもしれない。だが商店街以外に遊ぶ場所なんてあっただろうか。他にあるとすれば小さめのショッピングモールくらいだ。
永瀬さんは右手を顎に当てて考えていた。
「遅いって、何時くらいなんですか?」
「深夜二時とか三時とか。日によれば朝六時の時もあります」
「えっ、中学生でしたよね?」
「ええ、まあ……」
何となく自分が責められている気がして、声が小さくなった。二週間以上前からずっと遅いのに、自分では息子の素行を何も改善できていない。何度も注意したが一度も素直に聞いてくれることはなかった。むしろ、最近は拍車をかけて酷くなっている気がする。そろそろ家を出ていくなどと言い出しそうで、胸の奥が震えた。
帰りの時間を聞き、永瀬さんは皺を寄せて深刻な表情をする。関係ないことなのに、自分のために一所懸命力になろうとしてくれるのは、純粋に嬉しかった。
「多分、稔よりは年上の相手と一緒にいると思うんです。この前電話した時、相手に敬語を使ってたんで」
「なるほど。うーん、証拠がないと何とも言えませんが、危険ではありますね」
その言葉に、私の不安が膨れ上がった。稔は普通にどこかで知り合った人と遊んでいるだけなのかもしれないと、少しの期待は持っていた。相手が子供で、少し悪ノリして遅くまで遊んでいるだけだというなら、まだよかった。だが敬語を使っていたことでその可能性はなくなった。それに、稔はまだ一度も補導されていない。夜は外に出歩いているわけではなく、建物の中にいるのだろう。相手の家か、もしくはどこかのホテルか、もしくはどちらでもない場所。考えるだけで頭痛がしてくる。
「やっぱり、そうですよね」
「まず時間が遅すぎるっていうのと、敬語を使うような相手と一緒にいる点。大人といる場合、相手が何か目的があって稔くんに近づいている可能性が高いと思います」
「目的、ですか」
稔はその誰かに利用されているということだろう。いろんな店に連れて行ってくれているようだが、それは目的のための手段にすぎないのだ。稔に優しくして懐かせることで何か利益があるのだろう。もしそうなのだとしたら、稔を偽物の好意で騙している相手を許せなかった。
「稔くんって、イケメンですか?」
「え?」
突然の質問に素っ頓狂な声を出してしまった。質問の意図が分からず首を傾げると、永瀬さんは別にそういう意味ではないです、と苦笑した。どういう意味に捉えたと思われたのかは分からなかった。
「顔が良いんだったら、顔と身体が目的の可能性があります。別にそこまでなんだったら、何かで知り合っただけとかの可能性もありますけど」
稔の顔を頭に浮かべると、自然と美代子の顔も浮かんでしまった。美代子にそっくりな稔は生まれた時女の子かと思うほど可愛かった。今も可愛いと言えば可愛いのだが、嫌われている私にはもう、そういう感情は消え失せている。保育園の時からずっとモテていた稔は、中学の時に嫉妬されていじめに遭ったが、あの事件のことはもう忘れようと脳内の記憶を払う。
「確かに顔だけはすごく整ってると思います。どっちかと言えば、中性的な顔立ちなんじゃないかと」
「女の子に間違えられることも?」
「まあ、何度か。小さい頃に女優の勧誘を受けたこともありましたよ」
稔は昔から軽いトラブルに巻き込まれることが多かった。迷子になった時にある男の人が心配して声をかけたのだが、あまりに可愛かったため、最初はそんなつもりはなかったのに誘拐したくなってしまったのだそうだ。迷子になって一日後、男が出頭したことによって稔は発見された。
永瀬さんは少し黙ってから、「写真あります?」と手を出した。鞄からスマホを取り出し、写真のフォルダから三年前の稔の運動会の時の一枚を探して永瀬さんに見せる。リレーの時の写真で、今はこの写真しか手元にない。
「これです」
「うわ、芸能人みたい。ぱっと見女の子ですね」
やはり誰でも同じ感想を持つのだなぁと、少し呆れてしまう。稔は女の子みたいだと言われるのを嫌い、服装だけでも男っぽくしようと黒色の服を着ている。甘いもの好きのところは女子っぽいと思われるかもしれないが、それでも一人称を俺に変えたり、色々変わろうとしていることは知っている。
「これは可能性が上がったなぁ……稔くんって騙されやすかったりするんですか?」
写真を穴が開くくらいじっと見て言う。そんなに見てもただ稔の走っている姿が写っているだけなのに、そこまで長い間見る必要はないだろう。美代子のことを男が無意識に目で追ってしまうように、稔のことも目が離せなくなってしまうのだろうか。
「どうですかね……相手に下心があったりしたらすぐに気付きそうなもんですけど」
幼い頃からそういう目には多く遭ってきたから、不本意ながら稔自身、相手のそういう気持ちや感情には鋭くなっているだろう。相手が少しでも邪な気持ちを持っていればすぐ逃げると思う。だから、今稔と一緒にいる人が騙しているとすれば、稔が気付いていないはずがないのだ。だが、稔はその人に毎日会っている。それが、現状の全てを表している。
「でも今まで気付いてないってことは、騙されやすいのかもしれません」
稔の帰りが遅くなってからもう随分経つ。その間一度も怪しんでいないのだから、稔が鋭いなどとはお世辞でも言えない。私の思い込みだっただけで、本当はすごく鈍いのかもしれなかった。
永瀬さんは写真から離れ、ふう、と息を吐いた。
「まあ、本当に相手が大人なのか、稔くんを利用しようとしているのかは分かりませんけどね。中学生を深夜に連れ回してる時点で警察案件ですけど」
そう言った彼の眉間には少し皺が寄っていた。元警官だけあって、犯罪には穏やかではいられないようだ。
スマホを鞄に入れ、私はパスタを巻いて食べ始めた。少し冷めてしまっているが、うん、問題なく美味しい。やはり永瀬さんの腕は確かなようだ。十分ほどでパスタをぺろりと食べてしまい、セットのスープを飲む。そこで、扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませー」
永瀬さんが立ち上がる。スープを全て飲み干してから来客の方を見ると、私は目を丸くした。扉の向こうから現れたのは宮川さんと晴くんだった。宮川さんは初めて来たわけではないようで、永瀬さんと目が合うとぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。あ、三藤さんも」
宮川さんは私に気が付いて微笑みかけてくれた。座ったまま頭だけを少しだけ下げる。宮川さんの後ろにいる晴くんも私に気が付き、大きく手を振った。
「稔のお父さんじゃん! こんにちはー!」
今、このカフェにはアパートの住人しかいない。身近な人しかいないこの状況は何だか安心で落ち着く。
永瀬さんがグラスを二つ持ってきて、宮川さんたちは私の隣の席に座った。宮川さんと晴くんは本当に仲が良くて羨ましい。私と稔はこんな風に仲睦まじく食事をしたことがあっただろうか。何年も前にはあったんだろう。まだ稔が小学生くらいの時は、反抗もしなかったし素直で可愛かった。今日は一体どこへ行っているのだろうか。本当に相手が稔を何かに利用しようとしているのなら、こんなにも長い間相手と一緒にいるのは危険だ。誰といるのか早く知りたい。そしてちゃんと早く家に帰ってくるようになってほしい。そうじゃないと、私の気が休まらない。
宮川さんたちに軽く挨拶をしてカフェを出る。今日は商店街ではなく、少し離れたショッピングモールに行こうと思っている。今まであまりショッピングモールへは行かなかったから、もしかしたらそこに稔がいるかもしれない。そう考え、私はショッピングモールへと足を運んだ。
日曜日なだけあって、ショッピングモールは人が多かった。フードコートはほとんど席が埋まってしまっていて、店には行列ができている。先にカフェで食べてきてよかった。さすがにこんなに人が多い場所で食事をするのは疲れる。フードコートを離れ、適当にモールの中をぶらぶらと歩いてみる。人の多い中から稔を捜すのは困難だが、この際仕方ない。商店街でないとなれば、他に居そうなところはここしかないのだから。
一度本屋に立ち寄ってみた。今流行りの本は何だろうと入り口に並べられている本を眺めてみる。芥川賞を取った話題作小説からエッセイ、人生に役立つ本などジャンル様々な本が置かれている。それをざっと見てから奥に入って雑誌を眺めた。インテリアに関する本を漁り、良いなと思ったものを手帳に書いていく。いずれ仕事で使う日が来るまでメモしておくのだ。そうして一通り読み終わると、私は本屋を出た。ここには稔はいなかった。
他の店を捜しても見当たらず、帰る前にトイレだけ行こうと同じ階のトイレへ向かう。その時、トイレ前にある開けた広場の椅子に、見慣れた顔が座っているのを見つけた。周りの人より目に付くその端正な顔立ちに、私は思わず駆け寄って声をかけた。
「稔?」
「え」
スマホから顔を上げて私を見る。私を視界に入れると、稔は慌てて立ち上がって身を引いた。隣に座っていた女性が稔を見上げて目を丸くしている。
「な、何で? 何でここにいるんだよ!」
稔の声に周囲の人々が徐々にざわざわと騒ぎ出す。私は出来るだけ稔を刺激しないようにと、落ち着いたトーンで話した。
「買い物か? 他に誰かといるのか?」
「誰でもいいだろ! くそ、付いてくんなよ!」
「あっ」
私が何か言う前に、稔は背を向けて走っていってしまった。慌てて追いかけたが、何度か店の角を曲がったり店の中に入られて行方を眩まされたりして、なかなか追いつけない。だが、本屋に入っていくのを見つけ、慌てて走った。もうすぐで稔を捕まえられる。捕まえたら誰と来たのかを問い詰めなければ。本屋に入って雑誌コーナーへ逃げ込んだ稔の後を追い、雑誌コーナーの角を曲がる。
「ちょっと」
突然、誰かに肩を掴まれた。驚いて立ち止まって振り返ると、眉を潜めて私を睨みつける男の店員がいた。今は誰かに構っている暇はないのに、と低く不機嫌な声で「何ですか」と返した。だが、店員はまだ肩を離す様子はない。
「お客様、店内を走られては困ります」
そう言われ、ハッとした。稔のことでいっぱいで、周りのことが全く見えていなかった。店の中で走り回るなんて普段は絶対にしないし、自分がショッピングモール内を走っていたと思うと急に恥ずかしさが込み上げてきた。耳まで真っ赤になるくらい顔が火照る。
「す、すみません」
「さっきの、あなたのお子さんですか?」
「はい、そうです」
「あんまり仲良さそうには見えませんでしたけど。本当にあなたの子供ですか?」
店員は目を細めて訝し気に私を見ている。嘘を吐いた訳ではないのに、腹の内が疼いて体温が急激に下がってきた。額に嫌な汗が流れて視界が揺れる。
「そ、そうです。本当に私の……」
その時、視界の端で稔が本屋から走って出ていくのが見えた。
すぐに追いかけようと思ったが、店員の目もあったし、また走れる状況ではなかった。「すみません、気を付けます」とだけ言い残し、走らないように早歩きで後を追いかけようとした。が、すでに稔は姿を眩ませていて、どこに行ったのか分からなくなっていた。もう少しだけ他の店の中を見て回ってみたのだが、稔は見つからなかった。
一つため息を吐き、すぐにショッピングモールを後にした。
結局、稔が誰といるのかは突き止められなかった。あの場所にいたということは、相手はトイレに入っていたのかもしれない。稔を追わなければ誰か分かったのだろうか。いや、顔を知らないのだからそれは不可能だ。アパートへ帰ってから一本だけ煙草を吸い、それからは夜までソファで眠った。起きたのは玄関の扉の開く音が聞こえた時だった。
ドアを開き、稔がリビングへ入ってきた。おかえり、と言っても何も返って来ない。稔は宙を見つめ、生気のない目をしている。光の届かない深海のように真っ黒な瞳。その表情に、私は何も言えなくなった。稔は鞄をその場に落とすと、光のない瞳で私を捉えた。
「今日、母さんに会ったんだけど」
あ、と声が漏れた。稔に何があったのかを察してしまい、言葉が出なくなる。稔はドアに身体を預け、私には見向きもしないまま口を開いた。
「近くに来てるの、知ってたんだよな」
それは怒っているのでもなく、私を責めるような口調でもなかった。ただ稔は無気力で、それが返って私の心に刺さった。私は黙って稔を見ていた。
「別の男がいることも、子供がいることも知ってたんだよな」
先週の日曜に美代子に会ったことを頭に思い浮かべた。あの時の幸せそうな姿とお腹の膨らみ、そして新しいしっかり者の優しい男性。稔も私と同じような気持ちになったのだろうか。自分が傍にいなくても妻は別の人と人生を歩んでいけるという孤独感。相手は自分でなくてもよく、自分といた時よりも楽しそうに笑っている姿に絶望した。私は美代子に何も与えられなかったのだ。幸せなのは自分だけだった。
「母さん、笑ってたよ。幸せそうに、俺に今の夫を紹介してくれて」
稔の声が聞き取りづらくなる。喉で引っ掛かって上手く声が出せないのだ。目にも薄らと涙が滲んで、稔の表情がくしゃっと歪んだ。
「母さんはもう、俺の母さんじゃないんだ」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。その通りなのだ。美代子はもう、私の妻ではない。稔を生んだのは美代子だが、今はもう母と呼べる存在ではない。美代子は今、新しい命を生んで新たな人生を歩もうとしている。
「お前のせいなんだよ。何もかも」
稔の声が少し大きくなる。稔は私に憎しみを込めた目を向ける。瞳は灰を混ぜた濁った泥水のような色をしていた。稔にこの目を向けられるようになったのは二年前だった。謝ったからといって許してくれることではない。私は何も言えず、その場で項垂れることしかできなかった。
「お前が浮気なんかするから、俺は母さんを失ったんだ。なあ、返せよ。俺に母さんを返せよ!」
稔の感情が爆発する。涙が目から溢れて床の絨毯に落ちる。涙を腕で乱暴に拭くが、一度崩壊した涙腺を止めることは容易ではない。次から次へと溢れ出す悲しみを何度も何度も拭っていた。それを見て、私は我慢できずに言葉を口にする。
「ごめんな」
こんなことを言っても何も解決しないことは分かっていた。だがこれ以外に言う言葉が見つからなかった。稔の心の傷を埋めることは私にはできない。私には謝ることしか残っていないのだ。
稔は握った拳をわなわなと震わせ、一層目を鋭く吊り上げて怒鳴った。
「謝ったら帰ってくんのかよ! 帰って来ないだろ! もう一生、母さんは戻ってこないんだよ!」
母親譲りの綺麗な顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、稔は最後に私に言葉の矢を突き刺した。
「お前のせいだ!」
それだけ言うと、稔は扉を乱暴に閉めて部屋を出ていった。私は暫くその場で突っ立っていたが、ふと我に返って風呂に入ろうと洗面所へ行った。その際に鏡で見た自分の顔は、明日にでも死にそうなほど生気がなかった。こんな顔で人と会っていたのかと思うと死にたくなったが、今自分が死ぬと稔は途方に暮れてしまう。せめて稔が独り立ちできる年齢になるまで、私はまだ生きねばならない。
昼休み、いつものように海原くんと食事をしていると、今日は彼の方から稔のことを切り出してきた。昨日は稔くんと何もありませんでした? と、社食のカレーライスを口に運びながら言う。私は少し言い出しづらかったものの、昨日の出来事を彼に話した。
「え。稔くん泣いちゃったんすか?」
口に持って行こうとしていたカレーをいったん止め、彼は目を見開いた。彼のスプーンからぽたぽたとこぼれ落ちるルーを眺めていると、昨日の稔の涙が頭に過ぎった。
「ああ。私の前の妻に会ってしまって」
「そうなんすか……」
ぱくりとスプーンを口に入れ、彼は酷く暗い表情をした。稔に同情してくれているのだろうか。海原くんは一度スプーンを皿に置き、カレーを見たまま言った。
「稔くん、大丈夫っすかね? 自暴自棄になって自殺とか……」
「まさか」
そこまでのことはしないと思う。いや、そう思いたい。もしそれが理由で自殺したとなれば、原因は全て私にある。妻との離婚の原因である私は、ずっと稔に恨まれてきた。私がもっと強ければ今のような状況にはならなかったかもしれない。今さら悔やんでもどうしようもないが、後悔の波は定期的にやってきては私を飲み込んでいく。
「それはないと思うけど」
「そうすか? だって話を聞いている限り、稔くんのストレス尋常じゃないっすよ。どこの誰とも分からない人と一緒にいる時は分からないけど、両親が離婚して母が別の人と結婚して子供できてって、俺だったらどこか安心できる場所がない限り死にたくなりそうっすもん。稔くんが三藤さんの知らない誰かと一緒にいたくなる気持ち、ちょっと分かる気がするなぁ」
そう言い、海原くんは少し表情を緩めた。それはどこか遠くを見つめているように見えた。
「安心を求めて、ってこと?」
「はい。だってそれ以外に安心できるところ、ないっすよね?」
確かにそうかもしれない。稔は私といると決まって不機嫌になる。稔が一番安心できるのは、心を許している何者かといる時だけなのかもしれない。だが晴くんやめぐみちゃんといる時は? あの時も楽しそうにしていたじゃないか。わざわざ知らない人と遊びに行かなくても身近に友人がいる。それで十分じゃないか。
「でも、稔はその人に騙されてるんだよ。安心したらいけない相手なんだ」
私がそう言うと、彼は黙ってしまった。指先でスプーンをくるくると弄る。先ほどから彼のカレーはあまり減っていないようだ。喉が通らないのか、ずっとスプーンを回したりして遊んでいる。私は自分のカレーを一口分だけ混ぜ合わせて口に入れた。
「今日の海原くん、何か変な感じするね」
「変?」
「何だろ、上手く言えないんだけど、なんか、やけに稔の肩を持とうとするというか」
今まで、私はずっと稔の非行ばかりを話してきた。深夜か朝にしか帰って来ない、どこで誰といるのか言わないなど、稔のイメージが良くなるような話はほとんどしていない。先週は写真立てを投げられたことを話したし、彼は稔に不良少年というイメージしか持っていないはずだ。それが、今日は稔を責めるようなことは言っておらず、むしろ稔に同情している様子だった。
私の言葉に彼は眉を下げて困ったような笑みを零した。
「そうっすか? 別に、思ったこと言っただけなんすけど」
何か勘違いさせたならすみません、と彼はカレーを口に入れた。
「そっか。いや、何となく思っただけだから、気にしないで」
少し疑い深くなっているのかもしれない、と彼の気分を害してしまったことを悔やんだ。全く相手に対する証拠が見つからないから焦っているのかもしれない。昨日、もしかしたら相手に会えたかもしれないのに、稔を追いかけたせいで突き止められなかったことも原因だろう。こんなことではダメだ、もっと冷静にならないと。残りのカレーを喉に押し込むように掻き込むと、私は海原くんより先に仕事に戻った。
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