第96話「裏切者に吠える」
過去を回想しながら、私は眼前の女を見据える。
とても綺麗な人だ。
以前、先生が背が高い綺麗な人が好きだと言っていたのを思い出す。
なんだかんだで付き合いも長いので、よくわかっている。
彼女はきっと先生の理想そのものなんだろうなと。
逆に、元婚約者の綺麗な瞳に映った、私の姿が見えていた。
小学生と見間違われる低い背丈、起伏の乏しい体。
先生の好みとは違う、いやむしろ対極に位置しているとすらいえる。
けれど。
「私は、日高先生が好きです」
「へ?」
「はあ?」
「私にとって彼は大事なパートナーで、どこにも行ってほしくないし、傷ついてほしくない。だから、こうして貴方の前に私は立っているんです」
「そ、そんなの」
「貴方は、どうしてここに来たんですか?」
「え、ええと」
元婚約者はおろおろとあたりを見回し始める。
「わ、私は手助の婚約者で、だから会いに来て……」
「それは違いますよね?嘘ですよね?結婚するっていう約束を、二人添い遂げるっていう誓いを、貴方が反故にしたんですよね?」
私は、支離滅裂な主張には付き合わずに切り捨てる。
もしかすると、正常な思考が出来ていないのかもしれない。
そもそも、婚約は破棄されているし、接近禁止になっており、違反すれば罰金だったはず。
いや、どうでもいい。
今考えるべきはそこではない。
後ろにいる人を、誰よりも私にとって大切な人を。
この女から守れるのは、私だけなんだ。
「私は、それを知った時に諦めた。だって、先生にはパートナーがいて、婚約している人に近づくのはいけないことだから」
日高先生の為なんかじゃない。
人の恋人や配偶者に手を出すような不正をする自分を許せないから。
日高先生が教えてくれたのは、それだ。
自分がどうありたいかを、自分で決めればいいと。
何を望むのかを選択すればいいと。
引きこもっていてもいい。学校になんていかなくてもいい。
けれど望みを持たなくては、苦しいだけだと彼は教えてくれたのだ。
「私は、私の理想の私を大切にしたいから身を引いたの。誰かの為でもなく、私自身のためだけに」
「はあ?意味わかんない」
「貴方にはないの?理想の自分が、絶対に犯してはいけない領域が!あるはずでしょう!貴方は日高先生以前に、自分のことすら大切にできていないんです!」
「…………っ!」
元婚約者は硬直する。
今の今まで気づかなかったとでも言いたげに。
あるいは、気づいていたけれど目をそらしていたのか。
「私は、幸せに……」
「どこが幸せなんですか、婚約者を裏切って、ご両親との仲も悪くなって」
先生から、部分的に彼女のことは聞いている。
浮気現場を目撃して以来一度も会っていなかったはずだが、彼は元婚約者の近況はひとつ残らず教えてくれた。
「自分の幸せもわかってない人が、この人の側にいるべきじゃない!貴方のやるべきことは、この人を追い詰めて苦しめることなんかじゃないはずです」
私の父がどうしているのかは知らない。
けれど、悪いことをした人が、絆を裏切った人が誰かを苦しめ続けるなんてあってはいけない。
こいつらに出来ることは償うことと、被害者に関わらないことだけだ。
「先生を、手助さんを、見ていますか?」
ああ、ダメだ。
感情的になっている。
つい口が滑ってしまった。
ずっと呼びたくて呼びたく仕方がなかった名前が、口からこぼれた。
「何言ってるのよ、ずっと私は見てきて」
「見えてませんか?今、手助さんが怯えているのが」
いや、それでもいい。
言わなきゃいけない。
私は、ちらりと後ろにいる手助さんを見た。
掴まれた腕をさすりながら、顔を蒼白にしている。
「手助さんは、女性恐怖症になってるんですよ。貴方に裏切られてから、しばらくは女性と会話することだって難しかったんです」
「え……?」
元婚約者は、そう言われてようやく先生の方を見た。
そして、彼が怯えた表情をしていることにようやく気付いたらしい。
「そ、そんな、私の、せい?」
「……そうですよ」
もしかすると、今の今まで罪の意識すらなかったのかもしれない。
あるいは、そんなものなのかもしれなかった。
お父さんに罪の意識があるのかどうかはわからない。
けれど、浮気が発覚してからというもの私は父にほとんど接していない。
だから、彼はきっと私が絵を描きたくないと思ったり、先生を信用できなくなったことは知らないのではないかと思う。
結局加害者は自分がつけた傷すら自覚せず生きていけるものなのだ。
私や先生が、これだけ苦しんできたのに。
「そ、そんな私のせいで――」
「謝らないでください」
私が先生の側にいるんだ。
誰にも渡したくない。
「糾弾も、脅迫も、懐柔も、謝罪も、何一ついらない。貴方はこの人にどんな行動もとる権利がない」
「…………」
「黙って、この場から消えてください。そして、二度と彼に関わらないで!私の――」
それ以上は言葉にならなかった。
脅迫への恐怖、花火大会を提案してしまったことへの罪悪感、元婚約者への怒り、嫉妬などいくつもの感情。
それらの感情があふれて、涙が止まらなくなって。
声を出すことすらできなくなった。
「ありがとう、月島」
ぽん、と肩に手が一瞬だけ置かれる。
優しい手だ。
足音が聞こえる。
私と元婚約者との間に、誰かが立ちふさがった。
「あとは俺に、任せてくれ」
滲んだ視界には、見慣れた背中が映っていて。
「はい……」
私はただ、うなずくことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます