第98話「月が綺麗と、彼は言った」

「俺は、さ、その」

「はい?」 

「月島のことをどう思ってるのか、最近までわかってなかったんだ。多分いろんな思いを抱えていたから」




 最初に出会った時、俺は月島のことをどう思っていたのだろう。

 多分、心配だったのだと思う。

 担任であったがゆえに、不登校の理由は理恵子さんから聞かされていた。

 父親の不倫、そしてそれによる離婚で精神的に不安定になったと。

 のちにそれは厳密には不正解であり、教師に対しての不信感も理由の一つだったとわかるわけだが、それはいい。

 ともかく辛いことを経験した子供が、ふさぎ込んでいるのは見ていられなかった。

 目を逸らさなかったのは、それが自分の仕事だと思っていたからだ。





 次に抱いた気持ちは、敬意だった。

 俺は元々、野球をやっていた。

 小学校の時から大学までずっと。

 ほとんど野球しかしてこなかったと言ってもいい。

 甲子園に出て、プロになる。

 そんな夢を、ずっと追い続けてきた。

 そんな俺だからだろうか。

 自分のやりたいことを定めて、わが道を行く。

 そんな人のことが好きだった。

 これは余談だが、元婚約者に惹かれたのも仕事に一生懸命な姿を知ったというのが大きい。

 付き合う前からカットモデルになってくれと言われたりもした。



 閑話休題。

 絵を描きたいと思い努力を続ける月島のことを、俺は尊敬していたし、教師として応援したかった。

 タブレットの操作方法を教えたり。

 コミケに出て売り子をしたり。

 正直、かなりの時間を月島と過ごしたと思う。

 その中で、月島の内心を打ち明けられたり、二人で好きな漫画について語り合ったり。

 ただの教師と生徒というには、距離が近すぎたのではないかと今でも反省している。

 少なくとも、距離の近さに無自覚でいるべきではなかった。

 そうすれば、彼女ができたと報告した時、月島が悲しむことはなかったのかもしれないのに。



 彼女ができて、婚約して。

 月島の方もイラストレーターの仕事や学業が忙しく、お互い疎遠になって。

 俺が浮気されたことをきっかけに、俺達は再会した。

 その時抱いた気持ちは、感謝だったと思う。



「元婚約者に裏切られた時は、正直辛かったよ。君がいなかったら立ち直れなかっただろうと思うくらいに」

「…………はい」

「だから、本当に感謝してるんだ。今日だって助けてくれたし」

「ど、どういたしまして」



 何もやる気が起きなくて、人を嫌いになってしまいそうで。

 そんな時、月島が扉をたたいてくれた。

 話を聞いてくれた。

 逃げずに、傍にいてくれた。

 月島が、自分のやってきたことを肯定してくれたみたいで。

 俺の生き方は間違ってないんだと教えてくれたかのようで。

 きっとそれが、俺は一番嬉しかった。

 



 そして、その次の感情は。



「むらむら先生に、助手君として関わる中でさ、むらむら先生は俺のことを対等な存在として接してくれたと思う」

「それは、だって、私はずっとそうなりたいって思ってたから。教師と生徒の関係なんて、本当は……」

「うん、そうだね。俺も、その関係を居心地よく感じてたし」



 そうやって、教師と生徒というよりは対等なパートナーとして接するうちに。

 月島に対する感情も変化していった。

 教え子という守るべき対象ではなく、お互いに支え合う関係になって。

 俺は月島のことを。



「多分それくらいから、君のことを一人の女性として意識するようになっていったんだと思う」



 ああ結局、俺はそうなのだ。

 昔から何一つ変わっていなくて。

 やりたいことが、好きなことがあるとそれに夢中になってしまって。

 俺が、あれだけのトラウマから立ち直れた最大の理由は。

 時間が解決してくれたからでも。

 ましてや元婚約者を制裁できたからでもなくて。

 他に好きな人が――熱量を注ぎ込みたい存在ができたからだ。



「月島絵里さん」

「は、はい」



 月島は、ごくりとつばを飲み込む。

 さっきまで泣いていて、目の周りは微かに腫れてしまっていて。

 顔色は、緊張ゆえかトマトみたいに赤く色づいていた。

 そんな本気ゆえの顔を、俺はだと思うから。



「俺と、結婚を前提に付き合ってください」




 言い終えた瞬間。

 見計らったかのように、花火が上がった。



 ◇◇◇



 月が綺麗と、彼は言った。

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