第94話「日高先生のことを」
「ほら、一応片しておいたぞ」
「あ、ありがとうございます」
無数の紙くずをかき分けて、先生はゴキブリを退治してくれた。
以前もゴキブリが出たことがあり、部屋の中に殺虫剤スプレーがあったのが役に立った。
そんな害虫駆除をきっかけに、私達は話すようになった。
最初は、他愛もない話だったと思う。
というか、私が一方的にゴキブリの悪口を言ってそれを先生が聞くだけ。
よくよく考えると意味不明だったけど、本当のことだったから仕方がない。
ひとしきり愚痴を言って落ち着いた私に、先生はこういった。
「ずっと部屋にいるみたいだけど、掃除とかしてないのか」
「それは、家から出たほうがいいってことですか?」
私は目を細めた。
「まあ否定はしないかな」
それはそうだろうと思った。
だって、彼は先生だ。
生徒が学校に来なければ心配し、学校に来させようとする。
きわめて模範的な先生だ。
だからこそ、当時の私は反発した。
「嫌です」
「どうして?」
「それは、言いたくありません」
教師のことを信頼できないこと。
男性が苦手であること。
そしてそれが父の浮気が原因であること。
いずれも絶対に口にしたくなかった。
かといって、嘘を言うわけにもいかない。
父に会ってからというもの、私は嘘を吐くことが出来なくなっていた。
それこそ母を気遣うような優しい嘘でさえ、私は口にすることが出来なくて。
そのせいで母を何度も傷つけてしまったと思う。
「そうか」
と、一言彼は口にしただけだった。
怒るでも責めるでもなく、彼はそれしか言わなかった。
どちらかと言えば、どこかしら共感しているようにも見えた。
だからだろうか。
私は、彼と話すのを苦痛だとは感じなくなっていった。
それから三十分ほど一緒にいて。
また来る、と言い残して先生は帰っていった。
◇
それから一週間後、約束通り先生は来てくれた。
「それで、月島はいいのか?」
「何を言ってるんです?」
「お前が何もしないという選択をして、納得できてるんなら俺から何か言う権利はないんだけどな。お前はこのままで後悔しないのかって」
「後悔って」
「別に学校に行くのがすべてだとは思わない。学校に行きたくないのなら行かないってのももちろんありだ」
「…………」
「でも、何もやりたいことがないってのは正直退屈だと思う。それを選ぶのも自由ではあるが、おすすめはできない」
なんとなく、だが。
私は、彼は嘘偽りのない本音を話しているんだろうと思うことが出来た。
あれ以来、言葉に裏がないか、嘘をついているのではないかと疑ってしまっていたのに。
だから、人を避けて閉じこもっていたのに。
きっと彼の言葉に重みがあって、何より嘘を吐く必要がなかったからだろう。
私は彼の発言を、信じるに足ると判断していた。
「何かやりたいこととか、ないのか?やってみたいことでもいい」
言われて、一つだけ心に浮かぶことがあった。
「絵を描きたい」
「ならそうすればいい」
「でも描きたくない」
だって、嫌でも思い出すから。
画用紙に、チラシの裏に絵を描いたことで、父のことを思い出すのが嫌だった。
だって、母は
「わかるよ」
「俺さ、野球やってたんだよな。小学校から大学まで十年以上ずっとやってた」
「はあ」
日高先生は一目でわかる体育会系で、確かに野球をやっていたと言われれば納得できてしまう容姿と体格をしていた。
「でもうまくいかないことが多くてさ。決勝戦で負けて甲子園には行けなかったし、大学でも中々うまくいかなくて、結局プロにはなれなかった。何度もやめたいって思ったし、退部届を書いたこともある」
「……何を」
ぐしゃぐしゃに丸めた、部屋中に散らばった紙クズの一つを開く。
そこには、一枚の絵があった。
つい昨日、描いたばかりの絵だった。
「それでも、やらずにいられなかった。気が付いたら、バットを振っていた」
私と、母と、もう何でもない男を描いた絵。
全部失ったのに。
もう絵なんて描きたくないって思っているのに。
それでも、引きこもってからも絵だけは描き続けていた。
「お前も、そうなんじゃないのか?」
彼の目はただただ真剣だった。
私と同じくらい何かに対して全力で打ち込んできた人の目。
その目を見てしまったら、私はもう、嘘なんてつけるわけがなかった。
「描きたい」
「なら、どうする」
「絵を描きます、ずっと」
「俺に、何かできることはあるか?」
「私の絵を見て。そして、私と私の絵に対して、絶対に嘘はつかないでください」
「わかったよ」
この時私は決めていた。
彼を信じて、生きる指針にすると。
だから信じるために嘘をつかないでと要求した。
側から見れば意味がわからないと思うだろうが。
彼はとことんお人良しで。
こうして、私と日高先生の――月煮むらむらと助手君の関係が始まったのだった。
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