第93話「ゆえに、月島絵里は」

 私の名前は月島絵里。

 私の半生を語るなら、すべてに絶望し、そしてたった一人に救われたとでも言えばいいのだろうか。

 私にとって最初にして最大の絶望は父と母の離婚だった。

 原因は、父の不倫だった。



 私の前では常に穏やかで優しかった父。

 仕事が忙しい母に代わって、家事や育児を一手に引き受けてくれていた父。

 私が絵を描くと、いつでも褒めてくれた父。

 彼はよく私の前で、こういっていた。



「僕にとって、君達より大事なものはない」



 すべてが発覚するまではいい父で、いい夫だったのだと思う。

 けれど、父は裏切っていた。

 家族と団らんしてきたその口で、その体で、恋人と愛を語らっていた。

 浮気が発覚したきっかけは何だったか。

 父が証拠を残したのか、あるいは母の勘が鋭かったのか。

 私はそれを知らない。

 気づいたのは母だったし、当然ではあるが離婚に関する手続きを進めたのも母だった。

 一つだけ言えるのは父と母は半年にわたって言い争いを続けた末に離婚したということだ。

 それ以来、私は一度も父に会っていない。

 母は、私が望むなら会ってもいいと言ってくれたが、私が拒絶したからだ。

 


「嘘つき」



 私を、母を愛していると言いながら裏切っていた。

 そんなウソつきに会いたいと思わないし、許すことも絶対にない。



 そして、私は学校にも行かなくなった。

 何を言っているのかと思われるのかもしれない。

 父親が浮気して離婚したことと、私が学校に行かなくなったこと。

 それに何のつながりがあるのかと。



 私だって、真実を知らなければそう思っていただろう。

 父親の浮気相手は、

 ただの教師ではない。

 私の小学校の担任だった。

 父は、仕事が忙しい母に変わって授業参観や三者面談に参加することが多かった。

 つまり。

 父が浮気した大元の原因は、私だった。



「私のせいだ」



 少なくとも、当時の私は本気でそう思っていた。

 そして、学校に行くのを拒否した。

 今思えば、浅はかだったのかもしれない。

 しかし少なくとも、当時の私にとって教師や学校は家庭を崩壊させた原因の一つだったし。

 何より、私のせいだという思いがぬぐえなかった。

 だから、私は学校に行くことを拒否した。

 今思えば、よく母は壊れなかったと思う。

 夫に逃げられ、たった一人残った娘が引きこもったのだから、精神を病んでもおかしくないのに。

 ともかく、私は中学校が始まってから一度も登校せず半年が過ぎて。



 日高先生と初めて会ったのは、そんな時だった。



「月島絵里さん、かな?担任の日高です」



 第一印象は、ああ、男の教師なんだな、である。

 あまりにも漠然とし過ぎていると思われるかもしれないが、これにも事情がある。

 最初に日高先生が私の家に来た時、私は彼を部屋にあげなかった。

 つまり、彼の声だけをドア越しに聞いていたのが私達のファーストコンタクトだった。

 もっとも互いに姿は見えておらず、私に関しては声も出していなかったので、コンタクトと言えるかは微妙である。

 とはいえ、この時点では私は彼のことを何とも思っていなかった。

 無関心というのが一番正確だったと思う。

 この時はどうせもう来ないだろうな、と思っていたのもある。




「こんにちは、月島絵里さん、聞こえてますかー」

「…………」



 第二の印象、これもはっきりと覚えている。

 嫌悪だった。

 日高先生は、およそ二週間に一度、私の家を訪問していた。

 仕事が忙しいのか来る日はまちまちだったが、時間は放課後になってから。

 私の部屋の前に来て、二言三言声をかける。

 そして帰るときには、また挨拶をして去っていく。

 母が日高先生から聞いたところによれば、他の不登校児にも同じような対応をしているらしい。

 教育熱心ではあるだろう。

 彼と同居し始めて気づいたが、彼は本当に熱心な先生だ。

 Vtuber関連の仕事がないとき、日高先生は

 一人一人に気を配り、ケアが必要だと感じた生徒に可能な限り寄り添おうとする。

 彼が話しかけてきて、私はひたすらに無視をする。

 そんな関係がしばらく続いて。

 それが変化したのは、ある事件が起きたからだ。



「ひ、ひうっ」



 ゴキブリである。

 私は虫が嫌いだ。

 というか、大丈夫な人の方が少ないと思う。

 生理的嫌悪感というのはそうそうぬぐい切れるものではない。

 これまでもゴキブリが出ることはあったが、そういう時には部屋から逃げてお母さんに退治してもらっていた。

 すなわち、それは日高先生がいても変わらなくて。



「ん、月島、か?何かあったのか?え、ゴキブリ?」



 部屋を飛び出して、中にいたゴキブリを潰してもらって。

 そうやって、私は日高先生と出会ったのだ。

 初めて私を見た時の、彼の驚いた表情を、私は生涯忘れることはないだろう。

 今思うと、あの時私は見た目を整えるということを一切してこなかったので本当に黒歴史だ。

 顔すら洗っていなかったのだから。

 忘れたい、というよりは忘れて欲しい過去である。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る