第67話「元婚約者の変調」



「あんた、もう来なくてもいいよ」

「え?」



 美容院のオーナーに、ある日突然、そんなことを言われた。

 私は、この美容院で数年にわたって働いてきた。




「で、でも、私」

「お客さんからクレームがきまくってるのよ。ずっと体調悪そうだし、しばらく休みなさい?」



 確かに、ここのところずっと体調が悪い。

 客の前ではかろうじて抑えられているが、吐き気が止まらなくなったりすることもしばしば。

 受け答えがうまくいかないことはしょっちゅうで、それはそれはクレームが来ても無理がないだろう。

 けれど、いくら何でも急にクビというのは。



「ちょ、ちょっと待ってください」

「ダメだね。アンタが二股かけてたって情報がもうあちこちに出回ってるんだよ。大方従業員の誰かが漏らしたんだろうが……職場の雰囲気が荒れちまうのさ、アンタがいるとね」

「い、いや」

「それにね、私はどんな理由があろうと、客を満足させられない美容師なんて下の下だと思ってるのさ。これだけ噂が広まっている状態で、アンタに何ができるんだい?」



 私は、オーナーとも長い付き合いだ。

 だから理解している。

 オーナーは、厳しい人だ。

 一度離れろと言われるということは、絶縁に等しい。

 能力を示せなければすぐに切り捨てられる。

 私が、この店に戻れる機会は二度とこない。

 つまり、失われる。

 私が今まで積み上げてきたものは、すべて。

 何もかも、なくしてしまう。



「いや、いや」



 叫ぶ気力すらない。

 私は、うなだれるしかなかった。



「さっさと出ていきな。退職金は払ってやるからね」



 オーナーは、ため息と侮蔑の視線を残して、去っていった。



 ◇



 あれから体調不良は収まらず、実家にこもりきりになる日が続いていた。

 不審に思った私は、ある可能性に気付き、検証した。

 検査キットが、一つの事実を示していた。



「……妊娠してる」



 道理で体調がよくないはずだ。

 これなら、仕事が……。

 いや、仕事はもうどうにもならないからいい。

 妊娠と分かったところで、あの職場にはもう戻れないだろう。

 妊娠だけなら休職程度で済んでいたはずだが、私の裏切りがバレていたことで職場内での評価が地に落ちていた。

 むしろ、妊娠や体調不良は、最期のダメ押しでしかないのだから。



 今一番重要な問題は、誰の子供なのかということ。

 手助ではない。

 時期的にあり得ない。

 手助と別れる直前は特に、レス気味になっていた。

 原因は私にある。

 何のかんのと理由をつけて、私は彼の家の方ばかりに出向いていた。

 では、答えは、簡単な消去法だ。

 お腹の子供の父親は、彼以外にあり得ない。

 



「わかった」




 ようやく、理解した。

 今まで私が経験してきた喪失が、何のためにあったのか。

 それは、たった一つのためだ。

 すべては、彼を手に入れるため。

 居場所はもう知っている。

 わかっている。

 だから、手に入れてみせる。

 彼を、彼の愛を。

 彼と、彼の子供との理想的な生活を。

 絶対に手に入れる。

 だって。



「私だけ失っているのに、彼は何も失わないなんて納得できない」



 必ず、会いに行ってみせる。

 子供を認知させて、結婚して、望んでいたバラ色の生活を手にしてみせる。

 


「待っててね、旦那様?」



 私には、もうこれしか残っていない。

 妄執しか、残されていなかった。

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