第62話「元婚約者の地獄」
「辛い……」
手助に婚約破棄を言い渡された後。
私は、家と職場を往復するだけの毎日を送っていた。
朝早く起きて職場に向かい、仕事が終われば家に帰ってきて、造花の内職をやらされる。
母がとってきてくれた仕事らしい。
手助に対する慰謝料の支払いに使いなさいとのことだった。
逆に言えば、ひたすらお金を払うためだけに働けということ。
正直、モチベーションが上がらない。
「彼」に貢ぐためにお金を稼いだり、手助のお金を使っている時は特に何も思わなかったのに。
今はただひたすら、毎日がつらい。
けれど、誰も助けてはくれない。
父や母に一度だけ肩代わりしてもらうように頼んだが、ものすごい剣幕で怒鳴られた。
むしろ、「反省してないのか」「次言ったら、二度とこの家の敷居は跨がせない」と言いだした。
そうなったら何もかもが終わりなので私は従うしかなかった。
私が曲がりなりにも手助への支払いを滞らせずにいられるのは、実家に住むことで家賃を免れているからだ。
ここを追い出されてどこかのアパートに住んだとする。
すると、今払っている慰謝料の支払いプラス、家賃や食費なども自分で負担しなくてはならなくなり、到底首が回らなくなってしまうのだ。
「辛い……」
ため息をついて、私は家を出る。
辛いことがあっても、仕事にはいかなくてはいけない。
吐き気を堪えながら、私は一歩を踏み出した。
◇
「疲れた」
実家から電車で移動すること一時間。
手助と同棲していた家からなら十五分の所にある。
そんな美容院が、私の職場だ。
人々を少しだけオシャレに、綺麗にするのが私の仕事。
仕事は結構好きだった。
それなりにハードではあるけど、自分に向いてる仕事だと思ったし、充実していた。
けれど、今はちっとも楽しくない。
休憩室で一人お昼を食べていると、同僚が二人、こちらを見て通り過ぎていった。
口元に、笑みをたたえながら。
「ねえ、見た?」
「やばいよねー、何見てんのって感じ」
あの態度。
そして、わざと聞こえるように聞かされる陰口。
どうして、私がこんな扱いを受けているのか。
「おかしいわよ、こんなこと、あっていいわけがない!」
一人だけになった休憩室で、私は拳を机にたたきつけた。
「なんで、私が、浮気したことがバレてるの!」
どうして会社の中でも私の浮気が広まっているのか。
まるでわからなかった。
手助が広めたのかと思ったが、どうも違うらしい。
そもそも、向こうは会社には漏らさないという旨を約束していたはず。
多分私が会社に居づらくなってやめたら、慰謝料の支払いが滞ることを懸念しているのだろう。
実際、今居場所をなくして辞めたくなっているし。
ともあれ、手助が何かをした可能性は低い。
「じゃあ誰なのよ……」
親友だったはずの、水野京子の顔が浮かんだ。
彼女なら、可能ではあるだろう。
しかし、わざわざそんなことをするだろうか。
彼女にはRINEもブロックされてしまった。
二度と関わりたくないと思っているはずだ。
だとしたら、誰がやったのだろうか。
「うう……」
頭が痛い。
吐き気もする。
このところ、体調がよくない気がする。
まあ、最近は色々とありすぎたからストレスが原因だとは思うが。
体調が悪い、なんて職場では表に出せない。
そんなことを言ってしまえば、弱みになる。
浮気云々が上司にも広まっているのならば。
いや、広まっているのだろう。
そう考えるなら、今ここでこれ以上の弱みをさらけ出したしまえば。
今度こそ、私はクビになってしまう。
「いや、いや、それだけは、いや」
理不尽なことも多い職場だ。
激務続き、残業続きで。
理不尽なクレームだってあるし、肉体労働に近いからか、先輩からのしごきだってあった。
けれど、そういうのを全部飲み込んで。
これまで長い事頑張ってきたのだ。
それを、今更失うなんてできない。
「これだけは、なにがあっても、この職場だけは」
私は、泣きそうになりながら、歯をくいしばって耐える。
孤立しても、居場所がなくなっても、ここしか私にはもう残されていない。
ここを追い出されたら、私にはもはやもう何も残されていない。
「絶対に生き残ってやる……」
この時、私はまだ全く想定していなかった。
これからそう遠くないうちに、職場を追われることになろうとは。
◇
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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