第40話「元婚約者の蜘蛛の糸」
「はあっ、はあっ、はあっ」
吐きそうになりながらあてもなく走った。
先ほど見てしまった悪夢のような光景を忘れるために。
運動不足がたたり、すぐに動けなくなる。
吐き気が脱水症状によるものか、心理的な要因によるものかはすぐには判断できない。
ふらふらと、近くにあった公園に入り、ベンチに倒れるように腰掛ける。
両手で頭を抱え、うずくまる。
「ありえないありえないありえない!」
発狂しそうになりながらがりがりと頭を掻きむしる。
異常者であるとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
かつての婚約者が綺麗な女を連れて歩いていた。
決して私の中で一番ではなかったけれど、それでもとても長い時間をかけて一緒に過ごし、絆をはぐくんできたパートナーだった。
にもかかわらず、あの時から一か月程度で他の女に乗り換えるなんて。
いや、きっとショックなのはそれではない。
「あの光景は、本当だったの?」
今日という日で一番ショックだったこと。
それは、部屋に帰ると最愛の人が他の女を部屋に連れ込んでまぐわっていたことだ。
私という女がいながら、他の女とあんなことをするなんて、獣同然ではないか。
私にとって彼は最愛の人だったけれど。
彼にとっては、私は。
「たくさんの女の中の一人って、こと?」
やめろ、考えるな、口に出すな。
そうやって心を閉ざそうとしても、目に写した光景と、耳で聞いた言葉が、容赦なく現実を突き付けてくる。
「私は、いくら彼に貢いだ?」
十万二十万じゃない。
軽く百万円を超えている。
手助から盗んだお金、も含めれば三百万に達するはずだ。
彼にとって私は、最初からそれだけの人間だった。
お金を持ってくるだけの、都合のいい存在。
私にとっての王子様のような存在だった彼は。
私のことを何とも思っていなかった。
「どうすればいいの?」
もう、彼の元には戻れない。
彼に私と結婚する気がないのは明らかである。
いやもしかしたら、誰とも結婚する気そのものがないのかもしれない。
「誰に、これから頼ればいいの?」
手助の部屋に戻ることもできない。
彼と同棲を始める直前にもともと住んでいた部屋も引き払っているので、そこも使えない。
今日泊まるところが見つからないのだ。
「もしもし、私だけど」
「久しぶりだな」
「え、ええ」
父親が電話をかけてくることなど、今までに一度だってなかった。
いったいどういう理由があってのことなのか。
「何かあったの?」
手助とのことがバレたのだろうか?
京子との付き合いはなかったはずだけど、共通の知り合いを介して話が届いている可能性はある。
「いや、今どうしてるのかと思ってな?」
「え、ええと実は、その」
何を言おうか迷っていた。
最悪藪蛇になる可能性だってある。
「なあ、よかったら実家に帰ってこないか?」
「う、うんわかった!そうする!実はね――」
電話をしながら、私は心が復活してくるのを感じていた。
◇
電車と徒歩を介して、私は実家にたどり着いた。
色々あったが、ひとまずはこれでしばらく住むところには困らない。
両親には感謝するしかない。
人生で行き詰った私に残された、最後の蜘蛛の糸である。
元々、家族仲はあまりよい方ではない。
別に悪かったわけでもないが。
ただ、なんとなく私は私の居場所がこの家にないような気がしていた。
家族の雰囲気が悪かったわけではないが、逆に夫婦仲がよすぎて居心地が悪かったのだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえり」
両親は、二人とも玄関前で出迎えてくれていた。
私は罪悪感に胸を痛めながら居間に向かった。
「それにしても、手助君がそんなことをねえ」
「人は見かけによらないものよねえ」
「そ、そうだよねえ。私もそんなことをするはずないと思ってたんだけど……」
お茶を飲みながら、両親と手助について話す。
父はパソコンを操作しながらお茶をすする。
母は、新聞に目を落としながら、せんべいを食べていた。
私は、二人の様子をうかがいながらお茶を口に運ぶ。
私は両親に嘘を吐いた。
私がした説明は、手助が他の女性を浮気をしていたというものだった。
それでいづらくなって、泊まる場所を探していると。
「まったく、浮気する奴なんてのは碌なものじゃないな。なあ、母さんそう思うだろう?」
「ええ、まったくそうね」
「あはは、そうだよねー」
「浮気される側がかわいそうだとか、そういう感性がないのかもしれんな」
「そうね。少しでも、誰かのことを思いやれるような人だったら、浮気なんてできないでしょうね。残念ながら」
「そうそう、そうなんだよ!」
胸が苦しかったが、心の痛みからは目をそむけた。
今はとにかく話を合わせることが先決だ。
「これからどうしようかな……」
当座の生活が何とかなると、次は将来のことが心配である。
「まあ、あまり考えを巡らせない方がいいぞ?今やるべきことをやっていれば、自然と結果はついてくる」
「そうよ。誠実に生きてさえいれば、きっといいことがありますからね?私たちはそう信じてますから」
両親は、本当にお人よしだ。
善良で、人を疑うということを知らないらしい。
これならば存分に利用できる、と考えて。
「――ねえ、手助君」
呼吸が、止まった。
意味がわからなかった。
だって、ここには私達三人以外に、誰もいないはず。
どうして手助の名前がここにきて出てくるのか。
そもそも、手助君、とは何だ。
私の話を聞いていて、そんな風に親し気に話しかけるものなのか。
まさか。
まさか。
まさか。
『すみません、こんなやり方になってしまって』
「構わんよ。もとはと言えば、私の娘である君の不始末だ」
父が、そんな言葉を発しながらパソコンの画面をゆっくりとこちらに向けてくる。
「嘘よ」
いやだ。
だってこんなことがあるはずがない。
だって、手助を捨てて、友人には見放されて、彼にとっては都合のいい存在で。
家族まで、味方ではないのだとしたら。
「私、は」
『よう、久しぶりだな』
画面に映っている顔は、見覚えのあるものだった。
以前より少しやせている。
何より――表情がまるで違う。
敵に相対するような――敵と相対している険しい顔で。
私を見ている。
「手助……」
かつての婚約者、日高手助が画面越しにこちらを見ていた。
『さあ、話し合いを始めようか』
ぷつりと、糸が切れた。
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