第2話「教え子、月島絵里」

 全てを失ったあの日からどれくらい、たっただろう。

 何も食べていない。

 一睡もしていない。

 携帯もつながらない。

 というか、充電もしていない。

 あの日撮影した婚約者の浮気ハメ撮り動画を見ていたら、いつの間にか充電が切れていた。

 そして、なおかつ充電する気力もない。

 というか充電器を探そうとすら思えない。



「疲れたな……」



 もはや何をする気力もない。

 もう、このまま消えてしまえたら。

 そう思った時。


 ピンポーン、という音がした。



「何だ?」



 最初、それが俺を呼び出している音だとはとっさに判断できなかった。

 それだけ、傷が深かったんだろうな。

 そして、もう一度ピンポーンという音がして俺はようやくそれが俺を呼ぶ音であるのだと気づいた。

 だが、足は動かない。

 もう動く気力がまるでないのだ。

 昨日までの俺と、今の自分はまるで別人であるかのように思えてしまう。



「あれ?開いてる?」



 そこにいたのは、一人の少女だった。

 見覚えのある、ブレザーの制服。

 艶のある黒髪をショートボブにしていて、つぶらで大きな瞳と薄い唇、小ぶりな鼻という総じてかわいいと言って差し支えない顔立ちをしていた。

 背が低く、童顔なので中学生か小学生にも見えるが、違う。

 俺の勤めている高校の制服で間違いない。



「学生が、こんなところで何をしてるんだ?」

「え、あの」



 目の前の少女が、固まる。

 戸惑うように。



「先生、覚えてませんか?」

「うん?」

「あの、私、月島です。中学の時、担任だった」

「え?月島?全然雰囲気違うから、わからなかったよ」



 月島絵里。

 彼女は、二年前まで俺が担任を受け持っていた教え子だ。

 俺の勤めている職場は中高一貫校だが、校舎が違う。

 俺は主に中等部を教えているので、最近は会うこともなかった。

 当時中学生だったから、今は高校二年生のはずだ。



「え、そんなに雰囲気違いますかね?」

「ああ、正直めちゃくちゃ見違えたと思うよ」



 別にごまかしとかでもなく、単純にそう思ったから言う。

 中学の時は、黒縁眼鏡をかけていたし、髪もロングだった。

 今はコンタクトをつけて、なおかつボブカットなので全然違う。

 よく見れば、気づけたんだろうけども。



「え、そうなんですか?えへへ」



 彼女は、顔をぱあっと輝かせてうれしそうな顔をした。

 とりあえず、玄関の前で立ち話するのも申し訳ないと思ったので、部屋に招き入れた。

 ちゃぶ台に正座してもらって、お茶を入れて出した。

 そういえば、水もしばらく飲んでないんだよな。

 そう考えて初めて、喉が渇いていることに気付いた。

 久しぶりにお茶を飲むと、じんわりと染み渡ってくる。

 月島も出されたお茶をぐびぐびと飲み始めた。

 動作がちんまりしていることと、彼女が小柄なこともあって小動物みたいだな、なんてことを考えていた。

 さて、改めて本題に入るとしようか。



「それで、今日は何の用なんだ?」



 月島とは、彼女が中等部を卒業した後一度たりとも会っていない。

 年賀状は、毎年贈られてくるけどな。

 ああ、だからこの子は俺の住所を知っているのかと思い当たった。

 が、月島としてはそれだけはないようで。



「いえ、あの、覚えてませんか?」

「?」

「昨日、お会いしましたよね?」

「あー!」



 昨日、めちゃくちゃに走り回ったあと、公園で座っている時に確かに誰かに声をかけられた記憶がある。

 ただ、相手の顔は正直まったく覚えてない。

 言われてみれば制服を着ていたような気もするけど。



「ごめん、ちょっとバタバタしていて顔とか覚えてなかった」

「ああ、仕方ないですよね。先生、爆速で走っていきましたもん」

「だから、その、気になってしまって。いったい、何があったんだろうなって」

「ああ……」



 まあ、気になるのはわかる。

 知り合いが公園で黄昏ていて、話しかけたら急に走り出したのだから。

 住所は知っていたけど、連絡先までは知られていなかったし、メールとかができないとなると直接会うしかないよな。

 問題は、どう説明するかだ。

 ここで、適当に嘘を言ってごまかすのはたやすい。

 例えば、「最近仕事が忙しくて精神的に余裕がなくて」とかね。



 ただ、この方法にも問題が二つある。

 一つは、目の前にいるのが月島であること。

 彼女の前では、嘘はつけない。ついてはいけない。

 それだけはしないと、彼女とかつて約束したから。

 二つ目は、俺の問題。

 精神的に消耗しすぎている時に、悪気はないとはいえ急な教え子の来訪。

 正直、嘘を吐く余裕があるかどうか。



「あの、そういえば先生一人ですか?」



 彼女の目線が、動いているのに気付いた。

 部屋の中をきょろきょろと見渡し、最後に視線が一点へと終着する。

 月島は俺の手元を、じっと見ていた。

 指輪だった。

 結婚指輪、というわけじゃない。

 付き合って一年目の記念に買ったペアリングだった。

 日高先生でも恋人がいるんですね、と生徒や同僚にはやし立てられたりもしたっけ。

 月島にはそうやっていじられた覚えはないが、当然知ってはいる。

 俺が話した。

 だから、疑問に思うのは当然なのだ。

 恋人はどこにいるんだろうって。



「実は――」 



 頭のどこかで、こんなことを言うべきではない、とわかっていた。

 教え子に、子供に、月島に。

 こんな嫌な話を聞かせてはいけないと。

 けれど、もうどうしようもなく疲れていて。

 気が付いたら、洗いざらい全部ぶちまけていた。



「というわけなんだよ」

「…………」

「ははは、笑っちまうよな」



 作り笑いを浮かべながら、話を終わらせる。

 さっさと終わらせるに限るからな。



「先生、私が学校を休んでいたのは覚えてますか?」

「……?ああ、覚えてるよ」



 月島は、不登校だった時期がある。

 けれど、それが今この状況でなんだというのか。



「先生が辛いとき、我慢しないでいいって言ってくれたんです。休んでも止まってもいいって。でも疲れてしんどい時に、嘘だけはついたらダメだって」

「…………」



 それも、覚えている。

 俺の本心から出た言葉だったから。

 ボロボロになっていた誰かに、月島によりそう言葉。

 嘘をつかない、つかれたくないという彼女を肯定する言葉でもある。



「どうしてもつらいなら、私に頼ってくれても構いませんから、だから嘘はつかないでください、先生」



 そっと、手を握ってきた。

 小さくて、細くて。

 けれど、確かに熱を持っている。

 羞恥、激情、悲哀、歓喜。

 色々な感情が渦巻き過ぎて、その中心に何があるのかもわからない。

 ただ、気が付いたら俺はまた、膝をついていた。

 それこそ、俺自身の心のままに。



「好きだったんだ」

「はい」

「同棲してたし、旅行にも行ったんだ」

「……はい」

「プロポーズした、婚約もしてた」

「……はい」



 月島は、ただうなずいて、話を聞いてくれている。

 彼女が何を思っているのかはわからない。

 唇をかみしめて、悔しそうな顔をしていて。

 目じりには涙が浮かんでいる。

 彼女の澄んだ瞳に映っている俺の顔は――誰の目から見てもひどいものだった。



「子供だってほしくてさ、名前を何にしようかなんて、考えて」

「…………はい」

「些細なことで、喧嘩したり、そのあとで、仲直り、してえっ」

「…………はい」

「ずっと、一緒に、いた、く、て」



 そこまでで限界だった。

 俺は、床に頭をつけて、頭を両手で抱えて。

 背中をアルマジロみたいに丸めて、泣きだした。

 大声をあげて、三十近い、いい年した大人が。

 まるで、子供みたいに。

 どのくらいそうしていたのかもわからないほど、俺は泣き続けていた。

 その間、小さくて熱い、子供みたいな掌が俺の背中をさすってくれていた。

 ずっと、傍にいてくれた。

 


 ◇◇◇


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