誰かの森
低田出なお
誰かの森
お話の前に、一つだけご了承して頂きたい事があります。
このお話には「鎮守の森」という単語が登場しますが、それは本来の「鎮守の森」という言葉が指す場所ではありません。
鎮守の森がどんなものかというのは、インターネット上で検索なり、地図アプリなどで田園風景を探してもらうと分かりやすいと思います。
大きく広がった田畑の中に、ポツンと見える自然の一角。空から一株だけ植え込んだように、丸く繁る枝葉たち。そしてその中に、ひっそりと鳥居が佇んでいる。
そんな画像が、目に入ると思います。
それが鎮守の森です。
まるでアニメの世界の様な、ある種異世界を思わせるその場所は、鎮守の森に関する知識を持っていなくても神秘性を感じることでしょう。
ですが、これからするお話の「鎮守の森」は、そういったものではありません。
どういうことかと言いますと、私の住む地域には、今皆さんに調べてもらった鎮守の森のような立派なものではない、もっと小規模で荒れた森林が「鎮守の森」と呼ばれているのです。
私たちの地域にとっての「鎮守の森」とは、本来の鎮守の森のよりもずっと小さい、六畳くらいの範囲に鬱蒼と手入れのされていない木々が好き放題に生えている場所の事でした。
中に鳥居などありません。神聖な雰囲気は無く、ペットボトル等のゴミが転がっていることも珍しくないほどです。
そういった森が、連なった田んぼの中に等間隔に真っ直ぐ並んで繁っています。中には周囲の田畑が土地として売却され、住宅街になっている場所もありますが、そうした中でもその森は途切れる事なく、青々と残っていました。
そんな場所を、地元のお年寄りたちは「鎮守の森」と呼んでいました。
先に説明から分かる通り、本来の鎮守の森という言葉が指す場所とは異なっています。しかし、昔からの人々は皆、口をそろえて「あれは鎮守の森なんだ」と主張していました。
きっと何かのタイミングで、誤った知識がその世代に広まり、そして根付いてしまったのでしょう。説明をしてみても、彼らは断固としてその主張を譲りませんでした。
とはいえ、私自身も事実を知るまではお年寄りたちと同様に、その場所を鎮守の森と呼んでいましたし、強引に知識を押し付ける意味はありません。
加えて、出来る限り調べてみても、それらしい目ぼしい資料は見つけられず、その小さな森たちの適切な名称で分かりませんでした。
そのため、今回のお話につきましては、お年寄りたちに倣い、その場所の事を「鎮守の森」と呼び、進めさせていただきます。
正式な名称ではなく、紛らわしいかとは思いますが、何卒宜しくお願い致します。
****
小学生の頃の一番の楽しみは、友達と遊ぶことでした。
学校が終わると、乗りこなせる様になったばかりの自転車を駆り、友達の家に遊びに行ったものです。
当時の私は、遊びに行って友達の家でゲームなどに興じることはもちろんのこと、そこに遊びに行くまでの移動も楽しいものでした。
今までは精々徒歩かキックボードで行ける範囲しか無かった行動範囲が、自転車を得ると爆発的に拡大したことで、行ったことの無い所へ行ってみたい、見てみたいと掻き立てられた好奇心が強く沸き立ちました。その好奇心は、友達の家へと訪れる頻度をより高めていきました。
確かその日も、友達の家に遊びにいくのを楽しみして、学校が終わるのを今か今かと待ち侘びていました。
遊びに行くのは、別クラスの友達の家です。その子とは所謂友達の友達から始まった関係でしたが、その時には同じクラスと友達と遜色ないくらいに仲良くしている子でした。
彼の家は学校から丁度私の家と真反対に進んだところにありました。クラスが違うという事もあり、遊びに行くのは初めてで、とてもワクワクしていました。
学校が変わると急いで家までかけて行き、自転車に跨って待ち合わせ場所の公園を目指しました。
秋と冬の境目くらいの、ひんやりとした空気を切って公園に着くと、すでに遊びに行く家主の子と、彼と仲良くなるきっかけになった別の友達の二人がおしゃべりしながら待っていました。
二人は私が来たのをに気がつくと、その雑談に私を入れてくれながら、ゆったりと家へと出発しました。
初めての自宅の反対方面の景色は、正直変わり映えのしないものでした。今思えば、田舎の景色なんでそう大差ないものですし、当然と言えば当然です。実際、心のどこかで「こんなもんか」と割り切っていたのかもしれません。
ですが、私の頭には「初めて通る道だ!」という喜びと、友達とのおしゃべり、これからやってくるゲームの時間への期待で一杯で、ただだた愉快な移動時間でした。
幾らか走っていくと、そのうち友人宅へと到着しました。
友人の家は大豪邸という訳ではありませんがかなり大きく、当時出ていた最新のゲームハードも揃っていました。私はそれはもう大はしゃぎして、友人たちとゲームを明け暮れました。
ですが、平日の学校終わりの遊ぶ時間は、それほど長くはありません。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、やがて17時を少し回りました。時計を見た私は、そろそろ帰ろうと一緒に来た友達に声をかけました。私の家の門限は17時半前後で、もう帰路に着かねばそれを破ってしまうのが想像できたからです。
ところが、その友達からの返答は「もう少し遊んでいく」というものでした。
私は驚き、そして困ってしまいました。
全く阿呆な話ですが、私は遊びに来た友達が、そのまま一緒に帰ってくれるものだと思い込んでいたのです。
一応、ここまできた道中事は覚えていました。ですが、帰路を友達に丸投げするつもりだった私の記憶は、道中の楽しかったおしゃべりや期待感が占めるばかりで、肝心の道のりは朧げなものでした。
私は狼狽えながら、彼に説得を試みました。「もう薄暗くなり始めている」「5時には帰ろうって言ってたじゃないか」。そう言って詰め寄りましたが、大きなテレビを見つめて遊ぶ彼からは、生返事しか返って来ません。
最終的に、私はごねるのを諦めました。部屋の中の空気が著しくなっている事、その原因が自分にある事、そして、だんだんと自分がひどく情けない事を言っている事に気がついてきたからです。
ゲームのコントローラー等を鞄へ片付け、友人宅を後にしました。廊下に出た所で、家主のお母さんから「良ければ送って行こうか」と声をかけられたのが、より自分の惨めさと恥ずかしさを強調されている様で、とても苦しかったのを覚えています。
外へ出ると、真っ暗という程ではありませんが、思っていたよりもずっと暗く、そして肌寒くなっていました。それが単純に天候が揺らいだ事によるものなのか、私の心情に引かれてそう感じたのかは分かりません。ただ、その雰囲気が私の不安感をいやらしく煽っていたのは、どうしようもない事実でした。
自転車のスタンドを数度空振ってから蹴り上げ、ハンドルをよろつかせながら走り始めます。
当時はスマートフォンなんて持っていませんから、帰り道を調べる手段はありません。
頼みの綱は、行きの時に見た景色の記憶だけです。薄暗い道を走りながら、記憶の中の道のりを必死に想起し、何度も振り返って確認しながら進みました。
少し立ち止まっては走り、また少し立ち止まって走る、という進行方法は、当然のことながら普通に帰るよりもずっと時間かかります。それに伴って周囲の暗さはますます増し、どんどん私を追い詰めていきました。
何度か住宅街を曲がって進んでいくと、随分と開けたところに出しました。それは行きの時に通り過ぎた、水の抜けた田んぼの列でした。振り返ってみれば、確かに見覚えのある家屋の並びが見えます。
その景色を見て、少しだけ安堵しました。記憶が正しければ、この道にある十字路を一度曲がれば大通りへと出ます。さらにそこから大通りに沿って進んで行けば、自分の馴染みのある風景に出るはずです。
再びペダルは足を乗せ、のっそりと漕ぎ出します。田んぼに囲まれた開けた景色は、不思議と沢山の家に囲まれているよりは気が楽に感じました。
自転車は一直線に曲がる目印を目指します。
それは田んぼの一角に、小さくも鬱蒼と茂る自然。月明かりに照らされた、溢れるように幹を跨げた影の集まり。
鎮守の森と呼ばれる場所でした。
私の朧げな行きの記憶の中には、確かにその鎮守の森を曲がり、そのまま住宅街に入っていった光景がありました。
離れた所から見えるその姿は大きな暗い塊の様に見えました。ですが、不思議と恐怖は感じませんでした。寧ろ、私のここまでの道のりが間違っていない事を証明してくれているようで、殊更私の安堵感を掻き立ててくれていました。
自然と立ち漕ぎになり、暗がりを駆けた末に、その十字路へと辿り着きます。
腰を下ろして右足をペダルから離して少し車体外へと浮かせ、回り込むように茂みを右折しようとしました。
しようとして、光が木漏れ日の様に、森の角から漏れ出ているのに気がつきました。
森に隠れていた右手の道に、ヘッドライトのつけていない車が見えたのは、そのすぐ後でした。
私は慌ててブレーキを握り、浮かせた足を地面に擦らせながら、なんとか減速させます。
そこそこなスピードが出ていたためにつんのめってしまいながらも、なんとか止まる事が出来ました。
そして、その車が進行して来ているものと思っていたので、慌てて後退しながらぺこぺこと頭を下げました。
ああ、やってしまった。ちゃんと確認すればよかった。
そう思いながらオタオタ後退していると、その車が全く動かないのに気が付きました。見てみれば、運転席にも人が居ません。そればかりか助手席側のドアが開いていて、座席を照らしている車内の灯りが、すぐそばの鎮守の森を照らしていました。
今思えばその車の状態は、十分過ぎるほど不審なものでした。ですが、小学生だった私は早く帰りたいという思いもあって、それほど気にはなりませんでした。
とにかくここを曲がって大通りへ出る。その気持ちを最優先に、車の脇を通り過ぎようと自転車を前へ進めました。
が、停まっている車はそれを阻んでいました。まるで道を塞ぐように、車は斜めに停まっていたのです。
田畑の縁へと降りれば進む事は出来そうですが、走り抜ける事は出来ません。
私は少し苛立ちながら、車を睨みました。そして、並んだ車の正面から滑る様に、開かれたドアの方向へと視線を自然に動かしました。
薄暗い周囲とは違い、森の奥は真っ暗です。辛うじて、車からの光に面した地面が見えるだけでした。
あんなまばらに生えてる木でも、向こう側が見えなくなるんだな。
私はそう思うと、ふと、行きに通り過ぎた時、この鎮守の森がどんな様子だったかを思い出そうとしました。
でも、どうにも思い出せません。「この鎮守の森を曲がった」ということだけしか浮かんでこず、どのようになっていたかなどは、全く覚えていませんでした。
少しばかりぼんやりとしてから、自分が帰り道なのを思い出し、慌てて自転車を降りました。
勿論、鎮守の森に近づくためではありません。田んぼの縁を通るためです。
車の脇へと進み、柔らかさを僅かに感じる地面を踏み締めながら、自転車を押します。傾きに四苦八苦しながらも、万が一に車にぶつかったりしないように注意して通り抜けました。
縁から上がって道へと戻ると、すぐに自転車に跨ります。時間は分かりませんが、中々の時間を取られてしまった様に感じました。
でも、ここからは振り返って確認したりしなくても大丈夫だろうし、急いで帰ろう。
そう思ってペダルを踏み込もうとした時でした。
音が聞こえました。
何かが軋むような、擦れるような、きりきりという金属っぽい音が、森の方から聞こえました。
反射的、と言うべきでしょう。吸い寄せられる様に、首が森の方へと回りました。
森の中は相変わらず真っ暗で、奥の様子は分かりません。ですが、後の由来は見つける事が出来ました。
今右折してきた道側の木々の下、ちょうどさっき覗いた時には見えなかった位置に、黒い何かが、転がっていました。
自動車からの光に照らされるそれは、風に吹き飛ばされた雨傘の様に見えて、しかし雨傘にしては随分と大きい物でした。
そしてそれは、強い力で押し潰されている様に、ひとりでにひしゃげ、金切り声の様に甲高い音を立てていました。時折、金属が耐えきれなかった様にぱきんと鳴り、小さな破片が跳ねています。
黒い何かの周りには、その光景を作り出している様な物は見当たりません。しかし、どう見ても強い力で何かに押され、どんどん丸められていました。
多分、焦りやら息切れやらで、混乱していたのだと思います。いつもであれば、この異様な光景に怖がり、すぐに走り出していた事でしょう。
しかし、私はその何かが音を立てて潰れていく様子を、ぼうっと呆けながら見つめていました。
そして、薄暗さの中で軋む音に耳を傾けていると、それとは別の音が聞こえてくるのに気が付きました。
勝手に潰れていく何かの、すぐそばの暗がりから、聞こえて来たのは水気を多く含んだ音でした。
例えるとしたら、咀嚼音が一番近いかもしれません。
くちりくちり。くち、くちゃり。
液体に包まれたものが繰り返し押し潰され、それの圧迫が解かれる度に音を立て、糸を引いているのを想像できる様な、そんな音でした。
何かが森の奥にいる。
すぐそばの、この鎮守の森に。
その事実が頭の中で結びついた瞬間、私は目の前の光景に対して、ようやく正常な判断が出来ました。
瞬時に回れ右からペダルを踏みこみ、立ち漕ぎで無我無地に走りだします。一秒でも早く、その場から立ち去りたい気持ちで一杯になっていました。
途中、何度も振り返りたい衝動に駆られました。あの森にいたものが追いかけてきている様な気がして、振り返って、それを確かめたくて仕方がありませんでした。
でも、もし振り返ったとき、目の前にその何かがいるかもしれないと思うと、怖くて怖くて、ペダルをひたすらに漕ぐことしか出来ませんでした。
荒い口呼吸を繰り返しながら走り続け、遠くに見える大通りの光に向かって進みました。
苦しいほど遠く感じた看板や店の光に息も絶え絶えで飛び込むと、まばらな人通りと忙しない車の移動が私を迎えてくれました。
私はよろよろと歩道脇に近づいて足を止めました。ハンドルに肘を置き、渇いた喉の痛みを堪えながら、嗚咽混じりに息を吐き出します。
自転車を降りてしゃがみこもうとしかけ、やめます。今そうすれば、そのまま横に倒れてしまいそうな気がするくらい、私の頼りない体は悲鳴を上げていました。
そこからは道路に沿って進み、馴染みのある帰路が見えてくる頃には息も落ち着いて、そのまま家へと帰る事が出来ました。
家の前についてからも、私の心は穏やかになりませんでした。
なんだか分からないけれど、とんでもないものを見てしまった。
そんな恐怖が胸をどきどきと鳴らし、これから母に叱られるであろうことなど、全く気になりませんでした。
倉庫に自転車を片付けた時、私は今来た道を振り返りました。
幸いというか、当たり前というか、私の後ろにおかしなものは何もいませんでした。でも、すでに周りは真っ暗になっていて、少し先も見渡す事は出来ません。もしかしたら、あの暗がりの中にまだ何かがいるのかもと思うと、また怖くなって、慌てて家に駆け込みました。
翌日、私は昨日一緒に遊びに行った友達に、帰り道の鎮守の森で車が停まっていなかったか尋ねました。もしかしたら、友達もあの奇妙な光景や音を聞いたのでは無いかと思ったのです。
しかし、友達は違う道を通って帰ったそうで、車のことは知らないと返ってきました。鎮守の森についても質問してみましたが、覚えていないとの事でした。
一応、遊びに行った家主の友達にも鎮守の森の事を聞いてみました。彼からは「ゴミ箱かなんかがあるだけでしょ」と素っ気ない返事しか貰えず、車に関しても何も知らないと言われました。
私は、行こうと思えば、もう一度あの鎮守の森へと行く事は出来ました。ですが、好奇心と恐怖心を天秤にかけた時、好奇心が勝る事は、一度もありませんでした。
結局、あの森で見たことは分からず終いです。あの後、もしも恐怖に負けず、もう一度あの鎮守の森へ向かえば、その正体を見ることが出来たかもと思うと後悔の念がほんの少しだけ湧いてきます。
ですが、本当にあの森に行っていたら、「来るんじゃなかった」と後悔していそうだなとも思います。
その理由は、小さな森の中で潰れていた黒い何かです。
一目見た時は、とても大きな雨傘か何かだと思ってました。でも、金属のパイプをナイロンだかの生地で包んだそれは、傘にしては大きすぎます。
じゃあ傘よりも大きくて、黒くて、金属と生地で構成される、あの見た目に沿うものってなんだろう。
そう考えるとやっぱり、あそこで潰れていた黒い何かは、ベビーカーだった様に思えてならないのです。
誰かの森 低田出なお @KiyositaRoretu
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