第12話

 

 私は窓辺に近寄り、カーテンを開けた。彼女は私を待っていた。いつものジャンボジェットが通り過ぎる時間よりもかなり早い。もしかしたら彼女は昨日からずっと待っていたのかもしれない。

 彼女が私に向かって肯いた。

 私はスニーカーを履くのももどかしく部屋を飛び出した。一段抜かしで階段を駆け下りる。同時に向こうの棟で彼女が階段を急いで下りる姿も見える。

 私達はひとまず地上に下りて、そこで初めて顔を合わせた。

 いや――初めてではないのか。

「なんだか照れるから、挨拶はなしでいいよね」

 彼女は本当に照れた様子でそう言った。私まで頬が熱くなるような気がしながら、肯く。

「それとボクは自己紹介が苦手だ。だからそれも省略」

 夢の中の彼女は自分のことを「ボク」なんて言わなかった。だからというわけじゃないが、彼女が自分のことを「ボク」と呼ぶのは意外な気がした。いつもなら「ボク」なんて言う同性に先入観を持たず接することなんて出来ないけど、彼女は特別に似合っている気がした。自己紹介も同意の肯き。

「さあ行こう、宇宙船の発射時刻はもうすぐだよ」

 彼女が差し出した手を私はいつの間にかしっかり握っていた。彼女の導きで私は走り出す。

 今夜は珍しく空が曇っていて星は見えない。でも違いといえばそれぐらいで、彼女は彼女で、私は私だ。あの時と何も変わらない。

 私達は走った。ヨー子さんがベランダに立って私達に手を振ったので、私達も振り返した。

「そうだ、キミに謝らなくちゃならないことがあったんだ」

 彼女が走りながら、急に思い出したように言った。私は息が切れた声で聞き返す。

「――なにそれ?」

 ここで彼女と会ったのは初めてなのに謝ることなんて何もないはず。

「もしかして、私が屋上に会いに行ったとき、どこかに隠れたこと?」

 私も思いだして言った。

「そういえばそんなこともあったかな」

「それじゃないの?」

「うん。違う」

 考えてみても思いつくのはそれぐらいだ。

「あのね――」

 彼女は重要な秘密を打ち明けるように言葉を止める。私は彼女の急な告白のようなものに緊張する。

「あのね――自動販売機のジュース、キミが買う前にボクが飲んじゃった。あれが最後の一本で、キミがとても喉が渇いていたのは知ってたけど、ボクも喉が渇いていたから。今日はとても暑かったから、しょうがないよね」

 私は振り返った斜め前の彼女の顔を見つめ、それで足元の段差に気づかず転けそうになる。

「ボクって嘘っぽいかな?」

 彼女が言った。

「かもしれない」

 私は転けそうになった動揺を隠すように真面目な顔で返してみた。

 彼女が再び前を向いて走り、笑い出したのが分かった。だから高校体育からまともに体を動かしてないんだって――そんな運動不足で息も絶え絶えの私もたぶん笑っている。

 私の気持ちが通じたのだろうか、これ以上走れば肺が口から飛び出そうになった時、彼女が足を止めた。珍しく外灯が切れずに機能していて、ここで一休みしようということだろう。

 彼女が握っていた私の手を離す。それで私は膝に手を置きながらハアハアと下ばかり見ていたので、気づくのが遅れた。

 彼女が真っ直ぐに外灯が途切れた先の闇を見ていた。やっと顔をあげた私も彼女と同じ方向を見る。

 闇の中から闇より黒い影がゆっくりとこっちに向かって近づいて来る。闇に溶けていた輪郭が次第に明確な形を持ってくる。影が光の輪の中に入る。

 あの黒スーツの男がそこに立っていた。私が陽炎の向こうに見た男、葬式のような服を着ていたと老人が言っていた男。この男、言われているような警察関係者でもなさそうだ。夜なのに顔を隠すように色の濃いサングラスまでかけている。怪しすぎる。

「やっと見つけたぞ、もう逃しはしない」

 男が低い威圧のある声で言った。男が何者かは分からないが、私ではなく彼女に言ったのは間違いない。サングラス越しにも男が彼女を見ているのが分かる。デートへの誘いなどでは決してない。捕まれば彼女は困った状況に置かれるだろう。

 私は心配になって彼女を見た。

 彼女は口元に笑みさえ浮かべ、余裕の表情だった。何か策があるというのだろうか?

「何だそれは? 追いつめられて頭でもおかしくなったのか?」

 男が呆れたように言った。

 彼女は男に向けて左腕を真っ直ぐに伸ばし、手の平をピストルの形にして男に向けていた。私も少なからず男と同じ感想を持ってしまった。

「試してみる?」

 彼女の自信は揺らがない。まさか――でもそんなことはありえない。

 男はもう何も言わず、彼女に向かって真っ直ぐ歩いてくる。男の足運びに無駄はなく、私達が逃げるそぶりを見せただけで、すぐに全力疾走するだろう。

「――!」

 彼女は不思議な発音出来ない言葉を発した。彼女の手の平のピストルはその反動で斜め上を向いたが、もちろん何も起こらない。

 男はそんな彼女を無視するように歩調を緩めることなく迫ってくる。

 彼女は手の平のピストルの狙いをもう一度、男に合わせた。今度は右手でもピストルを作り、二丁拳銃の構えだ。

 私はどうすればいい? 彼女を逃がすために男に飛びかかろうかと考え始めた時だ。

「――! ――!」

 彼女が言った瞬間、その狙いをわずかに横にずらした。すると男の右側の植え込みから幾つかの黒い物体が一斉に飛び出してくる。

 野犬だ! 真っ黒な野犬の群れが男に襲いかかり、その足や腕や喉元に噛みついた。男は声にならない悲鳴を上げながら体を無茶苦茶に動かし、その野犬を振り払おうとしたが野犬は男を決して離さない。

「さあ、行こう」

 彼女が再び私に手を差し出した。目の前で繰り広げられる光景をただ唖然と見ていた私はそれで自分を取り戻した。私は彼女に肯いて、その手を握った。息も整ったので、走り出しても大丈夫。

「あいつ誰なの?」

 私達は団地の外れ、バイパスとの接続道路が引き込まれた辺りに向かって走っている。

「奴はエイリアンハンター、ボク達を捕まえて実験材料にするんだ」

 私が思っていたのとは全くの正反対だった。何だか可笑しくて笑ってしまう。

「笑い事じゃないんだからね、捕まったら生きたまま目玉とか、肝臓とか抜き取られて、それから切れ味の悪いノコギリやナタなんかでお肉屋さんのショーウィンドウに並べられるくらいまでバラバラにされるんだから」

 切れ味の悪いノコギリとナタというのがB級ホラーぽくていい。想像すると背筋がムズムズとする。

「でもあんな風にあの男をやっつけるとは思わなかった。てっきりあなたの指先からレーザービームでも出るのかと期待しちゃった」

「本当にそんなこと期待してたの?」

 疑う口ぶり。彼女を怒らせてしまっただろうか。

 彼女が続けて言う。

「でも出せるんだけどね、レーザービーム」


 彼女は団地のロータリーが見えると、走るペースを落として歩き出した。

「あれがボク達の乗る宇宙船、どうやら間に合ったようだね」

 ロータリーのバス停に、行き先表示のないバスが一台停まっていた。この団地に立ち寄るバスは夕方で終わりのはず。この団地のあっちか向こうで臨時のバスが出るようなイベントでもあったのだろうか?

 私達がそのバスの前に立つと、本物の宇宙船のハッチが開いたような圧縮空気が放出される音がして、ドアが開いた。

「早く乗りなよ、すぐに出発するからさ」


 私達二人だけを乗せたバスは渦巻き状の道を遠心力に引っ張られながら加速、見事バイパスに合流、私達は光の川の中をスピードと共に進んでいった。思わず私達は感嘆の声を出す。バックミラー越しにバスの運転手のオジサン、いやオニイサンが私達の方を見て得意気に片方の口元を上げる。

 リーゼントヘアのロックンローラー、身分を証明する制帽や制服の上着は無造作にダッシュボードの上に放置され、代わりにまくり上げられたTシャツの袖の中には赤いタバコのパッケージが器用に挟まれたりしている。最初はとてもバスの運転手には見えなかった彼だ。私の中でバスの運転手とはもっと生真面目な感じの、運行ダイヤとか交通ルールとか制服のプライドとかに全てを捧げているような人物と勝手に思っていたからだ。しかし、彼が本物のバスの運転手であることは間違いない。それは彼の腕に彫られた土星の輪を走るこのバス――いや、宇宙船のタトゥーが全てを雄弁に物語っている。

 彼こそ本物の宇宙船のキャプテンだ。

 彼はその卓越したテクニックで、他の宇宙船を次々と抜かし始めた。私の隣に座る彼女が、そのリズムに合わせてハミングし始めた。聞き慣れない、でもどこか懐かしいメロディー。船長も口笛で参加する。決して長くないメロディーは何度も何度も繰り返され、私も気づかないうちに鼻歌でなぞり始めていた。宇宙船は光あふれる無限の宇宙を進んで行く。


 銀河を三つ分は通り過ぎたと思える頃、宇宙船は速度を落とし始めた。バイパスの終点に近づいたのだ。そのまま宇宙船は惑星に着陸するために高度を落とし、目的地までは地上すれすれを飛んでいくことになる。

 私達のメロディーはいつの間にか止んでいた。それぞれ窓の外をそれぞれの思いで眺めている。

 街に人の姿はほとんどなかった。擦れ違う車もない。街の中心部に近づいているというのに、これまで開いていた店はシェルのガソリンスタンドにファミリーマート、レストランを改装したらしい個人経営の動物病院ぐらい。いずれの店でも客の姿はなく従業員が退屈そうにしていた。そこは私の知っている街であって、知らない街だった。

 そういえば今日は日曜、しかもバスの中の時計を見ると間もなく日付が変わる時刻だった。空っぽの街を止まるような速度で走っていた私達の宇宙船もさらに速度を落とし、やがて完全に止まる。

「着いたぞ、終点だ」

 リーゼントのキャプテンが私達に振り向いて告げた。そこは街のシンボル的な建物として知られる市役所の前だった。いつものようにライトアップされていないので、そこにあった威厳のようなものも消えている。

 通路側に座っていた彼女に続いて私も立ち上がった。思わず声をあげる。

「あっ――」

 私は財布を持ってこなかった。言い訳をすると、部屋の暗闇で頭をぶつけないように急いで出てきたので、そんなことまで気が回らなかったのだ。

 声をあげて立ち止まったまま動かない私に彼女が振り返り首を傾げた。私は彼女に聞く。

「ねえ、お金持ってる?」

 彼女はお金という単語を初めて聞いたように、さらに首を傾げた。とりあえず彼女にこのバス代だけでも借りようと思ったけど、期待できそうにない。

「どうしたんだい?」

 私は運転手のオニイサンに事情を話した。お金は後日必ず払うので、今回は許して欲しい。

「何だそんなことか」

 彼は声をだして大袈裟に笑った。

「元から料金なんてもらうつもりはねえよ。これは勤務外の労働だからね、俺がやりたいようにやるさ。そんなつまらないこと気にしなくていいんだぜ」

 再び圧縮空気が解放される音がしてドアが開いた。

「さあ、行ってきな」

 私達は声を揃えて彼に礼を言い、ステップを下りた。

「俺は夜明けまでここで待ってる。帰りも送ってやるから、存分に楽しんできな」

 私達は揃って肯き、手を取り合って駆けだした。

 振り返ると彼はタバコをくわえたまま、飛び出しナイフのような櫛でリーゼントヘアを整えていた。

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