第11話

 

 結局、私は何も出来ず、祖父は施設に連れて行かれた。

 私はアユミに電話した。アユミが祖父を施設に入れたのだ。私は何度も電話したが呼び出し音が何度か鳴った後に留守番電話に切り替わるだけだった。私はメッセージは吹き込まず、そのまま切った。そして再び電話した。アユミが笑っている姿が浮かぶ。アユミは私を困らせ楽しんでいるのだ。

 そのままテーブルの上に置こうとしたスマートフォンを再び手に取ってしばらくそのまま眺めた。やはり伝えないわけにはいかないだろう。ナリアキに祖父のことを伝えなければならない。私はナリアキに嫌われてしまったかもしれないけど、祖父のことまでは嫌いじゃないはず、祖父もそれを望んでいるはず。

 私は一度、深呼吸をしてからナリアキに電話した。アユミにかけた時と同じ呼び出し音がして、同じくらいそれが鳴った後、声がした。

 私はその声を聞いた瞬間、頭の中が混乱し、何を話すために電話したか分からなくなり、口を開こうとしても言葉が見つからず、何でもいいから久しぶりとか何とか言えばいいのにそれすら思いつかず、私は焦るばかりで、聞こえてきた声がナリアキのものではないと分かるまで時間がかかった。混線したようなノイズ混じりの声に私は間違い電話であることを告げて切った。瞬間安堵し、落胆する。それから何度かナリアキにかけてみたが繋がることはなかった。ナリアキも私からの着信と知って、わざと電話を取らないのかもしれなかったのではないかという考えに支配される。

 でも――だからどうしたっていうの?

 私は炎天下の自動販売機から続いていた目眩を思い出し、テーブルに突っ伏した。

 そのまま意識を失えばよかったのかもしれない。目覚めた時には、これまでのこと全てがひとつの長い夢だったなんて素敵なことがあるかもしれない。それも一つの現実的選択。でも、もしこの世界が夢だったとして、私を襲うこの激しい頭痛をどう扱えばいいのだろう?

 ついに痛みに耐えられなくなった私は椅子から立ち上がり、コップを使うのも面倒で、キッチンのシンクの蛇口に直接口をつけて錆びた味のする水道水を体の中に流し込んだ。吐き気がするまで流し込んでもまだ頭痛は続くので戸棚の薬箱の中を探すと、たぶん消費期限が過ぎているノーシンを見つけたのでそれを飲んで、気分だけでも頭痛がマシになった気がしたから、今度は熱を持った体を冷やそうと思って風呂場に行ってシャワーを出して、シャワーから出る水を頭から浴びて、でもそれはこの気温のせいでさっき飲んだ水と同じく生温くて、ちっとも気持ちよくないなと思ったら私がまだ服を着たままであることに気づいて、シャワーを止めるのも面倒なので、シャワー浴びたまま濡れて脱ぎにくい服を脱いでみた。


 ……それでは第十五問。これはボーナス問題です。正解になればなんと、ポイント十倍。まだ正解のないかたにもまだ脱出のチャンスは残されています。それでは問題……


 テレビはいつからついていたのだろう? 私はつけた覚えはないので、祖父が見ていたのだろう。だから最初はその音もテレビの中の音だと思った。私はその音がうるさいのでテレビのリモコンを手に取った。


 ……さぁ、ここが運命の分かれ道。もう既にお答えは決まっていることでしょう。時間になりました、お答えください。さぁ、答えてください、答えてください、答えて、答えて、答えるんだよ! さっさと答えろよ、このグズが……


 リモコンのボタンを押したとたんに部屋の中が暗くなる。やっと夜になったのだ。それなのに、テレビを消したのに、なぜか暗闇の中でその音は鳴り続ける。

 私は急いで立ち上がった。急ぎすぎてテーブルで膝をうった。ナリアキがメッセージを聞いて電話をかけてきてくれたのだろうか? 期待する気持ちはあるものの、鳴ったのが固定電話だったので、たぶんアユミがかけてきたのだ。私がまたスマートフォンの電源を落として閉じこもっていると思っているのだ。立ち上がった私は、暗闇の中で何か固い物体に足をひっかけて転けそうになりながら、どうにか受話器をつかんだ。

「もしもし」

 私から声を出した。アユミの用件はだいたい想像がつく。無理矢理に祖父を施設に入れたということは、次に私をあの全寮制の女子校に放り込むつもりなのだ。この団地に来る前にアユミが嬉しそうにパンフレットで見せた街から遠く離れた刑務所のような場所だ。アユミのことだ、既に相談ではなく、決定事項を笑いながら恩着せがましく私の為だとか言うつもりだろう。私はアユミの話すことは全て無視して、祖父のために戦わなくてはならない。祖父をここに取り戻さなくてはならない。私は背筋を伸ばしもう一度言う。

「もしもし」

 すぐに返ってくるだろうと思っていたアユミの声がしない。

 さっきのような間違い電話だろうか、それともやはりナリアキから? 私が相手に尋ねようとする前に、受話器から声がする――。

「パパだよ」

 その声……私は私で……私でないので……私は私でないので私は私じゃなくって………私は……私は震える、震える手で受話器を戻そうとする。

「電話を切るのは待ってくれ。お前がパパと話をしたくないのは分かる。分かるが、少しだけ話を聞いてくれないか」

 あの男の声が受話器の小さなスピーカーから暗闇に広がる。あの男が命じただけで、私の手が震えたまま空中で止まる。

「ママが自殺未遂をしたんだ。一昨日の夜、睡眠薬を大量に飲んだ」

 スピーカーから聞こえた言葉――。

「私はお前に伝えるかどうか悩んだ。悩んで伝えることにした。ママは今も集中治療室で医者によると助かる確率は五〇パーセントらしい。あいつもバカなことをしたもんだよ。だからというわけじゃないが、いつでもお前は家に帰ってきていいんだ。ママも本当はそう思ってるはずなんだ。恭一さんのことは、パパがちゃんとしておいた。何も心配することはない。今の私は以前の私ではない、信用してくれ、お前にあんなことはしない。約束する。パパは怖いんだ、とても怖い。お前に側にいて欲しい。側にいてくれるだけでいいんだ。お願いだ、お願いだよサヤ」

「……ハイ」

 その言葉は同意の意味ではなく、ただの条件反射。

 声を発したことで震えが止まり、私の手から受話器が落ちた。

 男がまだ何か話している。でも、今は暗闇のささやきが男の声をかき消してくれている。

 私は思い出す。

 あの浜辺に打ち上げられていたのが何だったかを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る