第10話

 

 昼食を終えた私はエアコンを修理してみることにした。三階の廊下の誰かが忘れていった脚立を借りてきて、それに上ってとりあえず外側の蓋を開けてみた。中に挟まった埃にまみれたプラスティックの網みたいなものを外すと、薄い金属板をミルフィーユのように重ねたものが出てきて、それ以上どうしていいか分からず、これは素人には修理不可能に思えた。勢いで修理してみようなんて思ってみたものの、考えてみると私はこれまで機械の修理なんてしたことがなかったことに気づいて苦笑する。

 結局、埃を掃除機で吸い込み、雑巾で拭いて修理完了ということにした。ついでに部屋全体の掃除も始めた。キッチンや風呂場まで洗って磨いて、気づくと日が傾き始めていた。

 リビングのテーブルで休んでいると、祖父が冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いで、私の前に置いてくれた。

「ごくろうさま」

 祖父が言った。

 それはあまりに自然で、私は気づくまでに少し時間がかかった。祖父の口調は病気になる以前のもので、表情にも弛緩した雰囲気がなくなっていた。私は冷えた麦茶を一口飲み、驚きと喜びを隠しながら平静を装い答える。

「どういたしまして」

 麦茶は祖父専用に作ってるものだけど、久しぶりに飲むと美味しく感じた。

「こうして家を綺麗にしてくれるサヤのことを見ていたら別荘でのことを思い出したよ」

「別荘って?」

「忘れたのかい? 海辺の別荘だよ」

「別荘って、あの別荘のこと? 海辺の別荘のことならもちろん覚えているわ」

「君は私があの別荘を手放すとき、片付けを手伝いに来てくれたんだったね」

「あそこは私にとっても思い出深い場所だったから」

「君は夏が来る度に遊びに来てくれた。浜辺で貝殻を拾ってペンダントを作り、私と妻にプレゼントしてくれた」

「そういえばそんなこともあったわね」

 祖父が語る幼い私の思い出に少し照れた。私も祖父と同じに過去を見ようとする。

「凧揚げもした。夜になったら、別荘の前で焚き火をして、その明かりでトランプをしたことを覚えているかい?」

「確か、私が三勝だけ勝ち越してるのよ」

「そうだ、そうだ。君は妻と結託して、私を陥れたんだ。私は悔しくていつも白ワインを飲み過ぎてしまった。君は勝利のキリンレモンだったかな?」

 祖父は自分で注いだ麦茶のグラスを私に掲げた。私も祖父と同じようにする。そして二人同時に笑った。

「それじゃ、あの嵐の日のことも覚えているだろう?」

「もちろん。忘れるわけないわ」

「嵐は一晩中続いた。強い嵐だった」

「建物ごと吹き飛ばされそうで怖かった」

「強い嵐だったが、それでも朝になってみると外は雲一つ無い青空だった」

「そして私達は浜辺へ出たのよね?」

 どうして私はそんなことを言ってしまったのか分からない。

「そうだ。私達は浜辺へ出た。人だかりが出来ていた。何かが浜に打ち上げられたようだ。君はそれが何か覚えているかい?」

 祖父が期待の眼差しで私を見た。私は祖父に応えようと懸命にそれを思い出そうとした。しかしいくら考えても何も思い出せなかった。

 私は祖父の言う海辺の別荘になんて行ったことがなかった。

 祖父はあきらめて、もう一人の私に聞く。


 その夜はあの少女を見なかった。

 私は久しぶりに活動的な一日を過ごしたことで思ったより疲れていたらしい。食事が終わるとそのまま布団に倒れ込むように眠ってしまった。


 ……太陽活動の活発化による地軸の変化と赤道から移動する高気圧の影響により、日中の最高気温が今世紀に入ってから二一度目の記録更新となりました。今日はこれからさらに高くなる可能性もあります。熱中症の予防に努めてください。水分の補給も忘れずに。チャンネルはそのままで。続いてお天気占いのコーナーです……


 いつか聞いたことあるようなアナウンスが隣の部屋のテレビから聞こえてくる。

 やはり埃を取ったぐらいでエアコンは直らなかった。

 私は飲み残しのマウンテンデューには手をつけず、意を決して灼熱の大地を進み、自動販売機まで行くことにした。祖父はテレビを見ながらうたた寝をしていたので、少しぐらい部屋を空けても大丈夫だろう。

 階段を下りて棟の外に出るとまるでオーブンの中に放り込まれたような熱気に包まれた。この前、生協の買い出しで日中に外に出た時より遥かに暑い。アスファルトの表面が溶けて、足元がベタ付いている。

 日陰をスタタタと忍者のようにハシゴしながら進んでいった。熱で揺らぐ景色の向こうに黒い人影も揺らいで見えた。あれがマスミさん達が言っていた怪しい人物だろうか? 私が見た少女ではなさそうだ。ヨー子さんが待っている郵便局員ならいいのに。

 どうにか自動販売機に辿り着いた私は、体全体の力が抜けてその場に倒れそうになってしまった。砂漠で蜃気楼のオアシスを追った旅人はこんな気持ちだったのだろう。

 最後まで残っていたはずのダイエットペプシまで売り切れのランプが灯っていた。確かに合成甘味料の味は好きじゃなかったけど、炭酸飲料には違いなかった。私以外にこの自動販売機を利用する人なんていなかったはずなのに。

 気力も萎えて本当に熱中症になりそうになりながら私は二号棟に帰ってきた。重い足を引きずり階段を上がり、やっと五階まで辿り着くと廊下の真ん中あたり、ちょうど祖父の部屋の前あたりに人が立っていた。

 さっき私が見たかもしれない黒スーツの男ではなく、薄いピンクのパンツスーツを着た女だった。女は大きく開いた扉を手で支えている。その扉は私がこれから開こうとしていた扉――。

 私は駆け足で近づき声を荒げる。

「何をしてるんですか!」

 女はアユミより若く、私より年をとっている。化粧気がない顔に細身の金属フレームの眼鏡をかけている痩せた地味な女。泥棒や強盗なんかには見えないが、それならこの女は何者で、どうしてここにいて、なぜこの扉を開けている?

 女は気色ばむ私に溜息のようなものを吐く。

「堀込恭一さんのご関係のかたですか?」

 女は私の姿、特にブリーチした髪を不審な目でジロジロと見ながら質問を質問で返した。

「堀込恭一は私の祖父です。あなたこそ誰なんです? 勝手に人の家の扉を開けたりして。警察を呼びますよ」

 私がそう言っても女は落ち着いたままで、また溜息のようなものを吐き、首からヒモで下げた身分証のようなものを私に見せた。身分証には女の顔写真と共に〈さわやか介護ホーム〉という文字があった。

「恭一様の引き取りに来ました」

「――引き取り?」

 私は意味が分からず、そのまま聞き返した。

「恭一様は今日から私達がお世話させていただきます」

 そんな話は初めて聞いた、はじめて聞いた。私の頭は混乱する。

「そんなこと私は聞いていないわ!」

「ご家族間のご連絡については、当方は関知しておりません」

「それでも、ここに来る前に電話の一つぐらいあってもいいでしょ、どうして勝手に来るのよ!」

「恭一様は一人暮らしをされていると聞いていましたから」

「だからと言って、勝手に扉をこじ開けていいはずないじゃない。警察を呼ぶわ。不法侵入よ!」

「鍵は契約をされたご家族よりお預かりしております。許可も得ています。私達は違法行為はしておりません」

 私が次の言葉を探していると、開いた扉から見える廊下に介護ホームのネーム入りのジャージを着た男が現れた。その屈強な男の腕に祖父が抱かれている。祖父は顔が歪むほど目を固く閉じ、体を縮め震えている。

「キョウイチさんはこんなに嫌がってるじゃない!」

 私は玄関をふさぐ位置に立って言った。

「私共はご契約者様の意思に従っているだけです」

「キョウイチさんの、本人の意思は関係ないって言うの!」

「残念ながら」

 女の薄い口元が笑っていた。私がそれについて怒る前に、祖父を抱えた男が私に背後から体当たりした。私の力はあまりに弱く、私がよろめく間、祖父を抱えた男は楽々と玄関の外まで出ていた。

 この二人は私が何を言おうと祖父を施設に連れて行くつもりだ。祖父が目を細く開けて、助けを求めるように私を見る。

「それじゃ私もキョウイチさんと一緒に行くわ」

 私は二人を睨みつけ言った。女の顔にはまだ笑みが張り付いている。

「業務規定上、事前に登録された方以外の同乗はお断りしております」

 女は私が口を開く前にスーツのポケットからカードのようなものを取り出し、私に差し出した。

「これが私共の施設の住所です。今日はこれから病院で入所前の検査をしていただきますが、それ以降はここでお世話させていただきます。面会の時間は厳しく決まっておりますので、きちっと守ってお越しください」

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